通算2作目のアルバム『風街ろまん』に収録
ハッピーエンドは、ビートルズ[1]を英語で歌うGSの様な音楽性ではなく、日本語で歌う事を目指した。バンドの作詞担当だった松本隆が、ダブルミーニング等の技法を歌詞に取り入れ、日本語ロックを構築した。松本は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けた事を公言し、この曲がなければ、はっぴいえんどはなかったかもしれないという趣旨の発言をしている[2]。大瀧と細野は音楽性を重視していた為、ロックに日本語の歌詞を付ける、この提案に反対した。また、サウンド面においてはアメリカのバッファロー・スプリングフィールド等に影響されたサウンドだった[注 1]
全日本フォークジャンボリーの第二回に登場し、第3回全日本フォークジャンボリーにも出演した。
一作目のアルバム「はっぴいえんど」~当時URCレコードのディレクターだった小倉栄司との縁により、バンドはURCレコードとの契約を得て本作を制作した。「12月の雨の日」は別ヴァージョンも録音され、1971年に初のシングルとしてキングレコードからリリースされた。本作は1971年に『ニューミュージック・マガジン』誌で第2回(1970年度)日本のロック賞を受賞したが、内田裕也はそれに対して、同賞においてURCレコードのアーティストが優遇されているという主張をしたため、『ニューミュージック・マガジン』誌上の日本語ロック論争へ発展していった[1]。
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大阪駅前や天王寺駅前は、1975年頃はまだ戦後ヤミ市のなごりを感じる木造バラック店舗が軒を連ねる一角があり、そこには髪の毛を伸ばしアングラフォークに惹かれた連中が集う、いわゆる「アングラ喫茶」がありました。「はっぴいえんど聴いてるの?ええやん!」お店に入ると初対面でもすぐに打ち解けてお互いの好きな音楽を語り合っていましたね。1980年代になると駅前再開発ブームでお店は一掃され、立派な超高層ビル群に変わってしまいました。サンライズカフェを訪れると青春時代のあの頃を思い出します。
阿倍野センタービル(当時あたりで一番高いビルでした、次のアポロビルが建ちました)の裏に旭町商店街(たしか?)があり、西成の飛田・山王に通じていました。途中にアングラ喫茶がありました、名前を忘れました・・・、天王寺駅の北口には靴磨きの方がいました・・懐かしいです♪