8月 2020

ぼくにさわらせておくれ 1971 ピンクピクルス

ピンクピクルス(作詞:戸田良子。作曲:大杉文雄、二村健二)の楽曲、MBSラジオヤンタンの今月の歌等で流され、リクエストが殺到し、同曲でテイチクより1971年(昭和46年)、レコードデビュー(B面曲は「小さな恋」)。

https://youtu.be/JVsPJxZsmwg?list=RDJVsPJxZsmwg
中学時代からの同級生だった茶木みやこ・小林京子が、大学時代に活動を始め、デビューする。名付け親は諸口あきら、京都にちなんで、「柴漬け」の意味。丸物WAIWAIカーニバル(近畿ラジオ)で笑福亭鶴光、笑福亭鶴瓶と司会をする。 当初より一年間だけの約束で72年には解散する。 茶木みやこはその後ソロとしてデビュー。
 

https://youtu.be/wiqw9KexdVo
昭和46年(1971) 作詩:北山修 作曲:加藤和彦
https://youtu.be/q3HobjRz0t8
昭和47年(1972)作詞:今江真三郎/作曲:茶木みやこ

ご案内 1972 ウィッシュ

1972年発売の伊豆丸礼子・伊豆丸幸子姉妹ウィッシュのデビューシングル、同年の第4回ヤマハポプコンにも出場しています(会場 合歓の郷 司会大石吾郎・岡崎友紀)

https://youtu.be/R4W2223y-Lg

ポプコン(ポピュラーソングコンテスト)~1969年から1986年までに行われたコンテスト。 (全32回+グランプリ大会1回) 当初は「作曲コンクール」という名称で、第3回から「ポプコン」に改名。 ラジオ番組「コッキーポップ」は1971年から開始。 一時期、テレビでも放映される。 「世界歌謡祭」は1970年から1989年まで20回開催された。

6月の子守歌~作詞 あだちあかね、作曲 野田 幸嗣 歌唱 みにくいアヒルのこ 1973年第5回ポプコン参加曲 ウィッシュは1974シングル年シングル発売しています。

https://youtu.be/9D16ApLTfCQ
https://youtu.be/dUGJnHPlKqo
https://youtu.be/grzSxU2JJxE

https://youtu.be/bV3INER2JuQ

旅人よ 1966 加山雄三

加山雄三の10枚目のシングルレコード「夜空を仰いで」のB面。
この2曲は12月15日に発表されたシングル「まだ見ぬ恋人」と共に、翌1967年元日に公開された加山雄三主演の映画「若大将シリーズ」の第9作となった「レッツゴー! 若大将」の挿入歌としても使われています。

https://youtu.be/nMhIvGXfKWg

 作曲は弾厚作(加山本人)、作詞は岩谷時子。 詞の内容は、晩秋の頃、故郷から遠く離れた草原を行く若き旅人に、命の限り夢を抱いて進みなさいと語りかける応援歌。
「いのち果てるまで」続ける旅とは、三次元的空間的な旅ではなく、四次元的時間的な旅を意味しています。 三次元の「天地」を旅館に見立て、四次元の「時間」を旅人になぞらえることは、古来の詞詩文曲に見えるとおりです。人は時の流れと共に未来に向って進む旅人であるという岩谷の考え方は、この古伝の思想を踏まえたものです 

  為風顫動的 綠的草地
  溯尋的瞳孔放光的 年輕的旅人
  聽在遙遠的 天空裡鐘響
  與在遠的故鄉的 母親的歌相似
  不久冬天 冷的雪會運送
  你的年輕的足跡
  對胸燃燒的 戀愛也填埋
  草枯萎也 到生命終
  你 對心中有夢 年輕的旅人

https://youtu.be/NgLRZmukIQI

第2節に見える「遠いふるさと聞く 雲の歌に似て」とは、分かりにくい表現ですが、「遠いふるさと聞く」とは、本来はこのような口語体の歌詞では「遠いふるさと聞く」とすべきところを、詞全体の韻律を整えるために敢えてこの句だけ文語調の表現にしたものと考えます。
 また、「雲の歌」が何を指すのかは本人でなければ分かりませんが、岩谷が7歳のときに発表された童謡「夕焼け小焼け」の可能性が高いものと思います。 この童謡の中には直接「雲」という詩語は出てきませんが、岩谷の詞に見える「赤い雲」「夕陽」「空」「鳥」などの詩語は、「夕焼け小焼け」を強く意識したもののように思えます。 引用~伊賀山人音樂故事

誰もいない海 1970 トワ・エ・モア

1967年、NET『木島則夫モーニングショー』「今週の歌」として、ジェリー伊藤の為に作られた曲。作詞:山口洋子、作曲:内藤法美(つねみ)、初レコード化は1968年、シャンソン歌手の大木康子が歌ったシングル盤である。この時はチャートインしなかった。

https://youtu.be/iSUHYkF442A


1970年1発売されたトワ・エ・モワが歌ったシングル盤が大ヒットした。このため、シャンソンよりフォークのイメージが強い。トワ・エ・モワと同じ日に越路吹雪もシングル盤で発売し、競作となった。

https://youtu.be/A-pV3cEHoLk

作詞者の山口洋子は現代詩畑の詩人で、『よこはま・たそがれ』などの流行歌で知られる作詞家の山口洋子とは、同姓同名の別人である。また作曲者の内藤法美は、本楽曲を歌っている越路吹雪の夫である。

風をあつめて 1971ハッピーエンド

通算2作目のアルバム『風街ろまん』に収録

https://youtu.be/PfFEPtJE0D4

ハッピーエンドは、ビートルズ[1]を英語で歌うGSの様な音楽性ではなく、日本語で歌う事を目指した。バンドの作詞担当だった松本隆が、ダブルミーニング等の技法を歌詞に取り入れ、日本語ロックを構築した。松本は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けた事を公言し、この曲がなければ、はっぴいえんどはなかったかもしれないという趣旨の発言をしている[2]。大瀧と細野は音楽性を重視していた為、ロックに日本語の歌詞を付ける、この提案に反対した。また、サウンド面においてはアメリカのバッファロー・スプリングフィールド等に影響されたサウンドだった[注 1]

全日本フォークジャンボリーの第二回に登場し、第3回全日本フォークジャンボリーにも出演した。

一作目のアルバム「はっぴいえんど」~当時URCレコードのディレクターだった小倉栄司との縁により、バンドはURCレコードとの契約を得て本作を制作した。「12月の雨の日」は別ヴァージョンも録音され、1971年に初のシングルとしてキングレコードからリリースされた。本作は1971年に『ニューミュージック・マガジン』誌で第2回(1970年度)日本のロック賞を受賞したが、内田裕也はそれに対して、同賞においてURCレコードのアーティストが優遇されているという主張をしたため、『ニューミュージック・マガジン』誌上の日本語ロック論争へ発展していった[1]

風と落葉と旅びと 1972 チューインガム

ヤマハのポプコンの入賞曲で、当時11才と13才の
日本最年少シンガーソングライターとして注目を浴びた松田りかと松田マミは姉妹ディオ。大阪府豊中市出身。代表曲はデビュー曲の「風と落葉と旅びと」

https://youtu.be/JwnCGnunyAg

親子で作詞・作曲をしている作品が多い。父はヤマハポピュラーソングコンテストの常連で、親子共々参加し、「ゴリラの歌」(大塚善章/編曲)がグランプリに選ばれるなど数多くの曲が賞を受けている

https://youtu.be/TR0hk4RmCV8

この曲からの連想・・・ポプコン、コッキーポップ、風に吹かれていこう、ウィッシュ、ピンクピクルス 二人を結ぶジャンボフェリー・・切りがない(^^;) 次回はこの中から♪

誰のために 1970 赤い鳥

赤い鳥~。1969年に結成、メンバーは、後藤悦治郎、平山泰代、(1974年2月に後藤と結婚)、山本俊彦、新居潤子(1973年4月に山本と結婚)、大川茂(ベース)、1969年加入、後藤が、尼崎北高校の同級生だった平山さんと1967年から兵庫県尼崎市で毎月一回定期的に開催していた〈赤い屋根の家コンサート〉から1968年に誕生した。路線対立から1974年9月に解散。後藤・平山夫妻は「紙ふうせん」、山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、渡辺は「ハミング・バード」を結成した。

https://youtu.be/4vykDf_--yc

 コンサートでは当初、後藤悦治郎&平山泰代の名称で一緒に歌っていた。レパートリーは「竹田の子守唄」等の日本の伝承歌ばかり。その後、後藤が男女混声のグループを結成しようとメンバーを集めた。高校1年時にカルチャーショックを受けたPPM(ピーター・ポール&マリー)のハーモニーを再現するためのグループである。
 マリーの迫力ある声に対抗するために平山さんのほかにもう一人女性を入れてユニゾンで歌わせる。ハーモニーをつけるのは男性陣。そこで当時谷村新司氏率いるヒルビリー・シンガーズ」の新居潤子を引き抜いた、一緒についてきたのが同じグループにいて新居さんのヴォーカルに惚れ込んでいた山本だった。 

https://youtu.be/y2veHNEWt3Y

 1969年、ベース担当の松田氏が脱退すると、グループの活動を知り、会社員を辞めて大川さんが参加した。
 この加入は赤い鳥にとって大きな意味を持つのではないかと思う。その後のオリジナル曲において、山本さんとのコンビで後藤さんの世界とは違うもうひとつの赤い鳥の世界を作りだすことに成功している。がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。各地の子守唄・伝承されている歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ(en:Tony Macaulay)などの曲提供によりアルバムを発表するなどいわゆるソフトロック的な音楽性も兼ね備えていた(そのため、関西地区で結成されたグループであるが、関西フォークとは一線を画していた)。[後期にはウッドストックの影響で、ロック色の強い音作りをしたが[1]、基本的には赤い鳥は民謡とフィフス・ディメンションのようなコーラスものの両方をレパートリーにした[1]

https://youtu.be/BdhIVd0Hcl8

1969年「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。「竹田の子守唄」、「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得した。このコンテストにはオフコース(当時は「ジ・オフ・コース」)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」)も出場しており、財津和夫はオフコースに、小田和正は赤い鳥にそれぞれ「負けた」と思ったという。村井邦彦は東京から尼崎まで赤いポルシェで駆けつけたらしいです。

https://youtu.be/la35ph4gpuA

1970年4月に渡欧、ロンドンでレコーディングを行う。6月に日本コロムビアからシングル「人生」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。9月、東芝EMIレコード/Liberty レーベルに移籍。10月、合歓ポピュラーフェスティバル'70に出場、「翼をください」で新人奨励賞を受賞する。1971年2月発売の「竹田の子守唄/翼をください」が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。

新井啓介さんの「もう一つの夕景工房」等から引用しました。

赤い鳥、70年代、大阪、フォークディオ、ヤマハ、グランプリの連想から、次回はチューインガムを予定しています! 

思い出の渚 1966 ザ・ワイルドワンズ

作詞は鳥塚繁樹、作曲は加瀬邦彦。加瀬邦彦の12弦ギターで大ヒットし、100万枚以上[1]を売り上げた。東芝音楽工業が有する洋楽レーベルのひとつだったキャピトル・レコードから発売された。モノ・ミックスでのシングル発売だったが、後のLPではステレオ・ミックスされて発売された。

https://youtu.be/xnP8td51FZY

ザ・ワイルドワンズは、ブルージーンズを脱退した加瀬邦彦が、当時若者に人気の週刊誌「平凡パンチ」に募集記事を載せたのが始まりである。数々の応募者の中から、"ディメンション" にいた植田芳暁、立教大学のサークル "カントリー・フレッシュメン" の鳥塚繁樹、友人とアマチュアバンド "ロック・ビート" を組んでいた島英二の3名が選ばれ、1966年7月結成した。グループ名「ワイルドワンズ」とは、加瀬邦彦の大学(慶応義塾大学)の先輩である加山雄三が名付け親である。彼が当時、星占いに凝っていた事もあり、それにより「野生人=WILD ONES」と名付けられた。

https://youtu.be/9PvLB14kFD8


静岡・伊東で合宿を行い練習をスタート。渡辺プロに所属し、8月には本格活動を開始した。10月から始まったNTV「あなた出番です」にレギュラー出演するという快挙を遂げ、同年11月「想い出の渚」でレコード・デビューをする。1967年1月には、ザ・タイガースと共にウエスタン・カーニバルに初出場を果たした。引用~団塊世代の思い出

加瀬邦彦~慶応義塾大学在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する[2]。その後ホリプロに所属し、清野太郎かまやつひろしらと「キャノンボール」を結成[2]1963年には事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入した[2]。しかし・・本人談「寺内たけしとブルージ一ンズ時代 に、ビートルズが来日することになり、前座 として共演できることになったんです。ビー 卜ルズの大ファンだったのでとても嬉しか ったのですが、警備がものすごく厳しい。前座が演奏し終わったら外から鍵をかけて、 ビートルズの演奏が終って彼らが武道館から出たら鍵を開けるというんです。これでは ビートルズを見れないわけですよ。それなら バンドを辞めて観客として見た方がいいと 思い、それでビートルズの公演の一ヶ月前 に辞めてしまったんです。ビートルズは客席 から無事に見ることができました」引用~日刊SUNWEB

https://youtu.be/zlnsGttykcw

所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「ただで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山雄三(家が近所で学生時代から親交があった)が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成(この時、渡辺プロに移籍)。得意の12弦ギターヤマハ特注)は、ワンズサウンドの要となる。

解散後は、PYG(ピッグ)や井上堯之バンドともかかわりを持ち、作曲家としてだけでなく、沢田研二のプロデューサーとなる

ケメコの歌 1968 ザ・ダーツ

ザ・ダーツ(「ケメ子の」、1968年2月1日発売、日本コロムビア)と、ザ・ジャイアンツ(「ケメ子の」、1968年1月25日発売、ビクターレコード)デビューシングルとして競作でシングル盤が発売。ザ・ダーツ盤がオリコンチャート2位(累計売上60万枚[1])、ザ・ジャイアンツ盤がオリコンチャート6位を記録した。

https://youtu.be/dsmRqdsKIM8

ザ・ダーツは、京都府立朱雀高校に入学した土森勝則、原田和夫、橋本謙次の三名によって結成されたウエスタンのインストバンドだった。1996年京都のカレッジアン・クラブに所属。同年12月、同クラブの主催するコンサートで "ザ・ワイルド・ワンズ" と初共演が刺激となり土森勝則がヴォーカルを担当するようになっていった。たまたま他のグループが演奏していた「ケメ子の歌」を取り入れ、練習を開始。

https://youtu.be/zqSIbPbGWT8?list=TLPQMjAwODIwMjBC0gXWD1pMHQ

その後、毎日放送「歌え、MBS・ヤング・タウン」に出演する機会に恵まれ、「ケメ子の歌」を披露。それが大反響を呼び、急遽コロンビアからレコーディングされ、1968年2月1日、レコードデビューを果たした。

https://youtu.be/-FHBmGzFXQs

もっとも競作で先に日本ビクターにて1月25日 "ザ・ジャイアンツ" からリリースされた「ケメ子の唄」が本命視されていたが、"ザ・ジャイアンツ盤" はオリコンチャート6位に対し、"ザ・ダーツ盤" がオリコンチャート2位という快挙を遂げ、華々しくデビューを飾った。1969年夏に解散した。~引用ブログ団塊世代の思い出

ジャイアンツ版→https://youtu.be/hMm0z57Odsk

たんぽぽ 1971 ガロ

ガロ (GARO) は、1970年から1976年まで活動した日本のフォークロックグループ。堀内護(愛称MARK)、日高富明(愛称TOMMY)、大野真澄(愛称VOCAL) の3人グループとしてデビュー。全員が生ギターボーカルを担当するのが基本的な編成。ガロという名前は、当時ザ・タイガースのマネージャーで三人の世話役でもあった中井國二が自分の子供にと考えていた「我朗」から名付けられた。

https://youtu.be/DBA3Qi5s1BY

元々はCSN&Yブレッドの影響下にあったバンドであり、それらのグループの楽曲もレパートリーに加えていたこともあり[1]、卓越したコーラスワークとギターテクニックにより「和製CSN&Y」と称された。新レーベル・マッシュルームレコードの第1回発売アーティストとして契約。プロデューサーミッキー・カーチスが務めた[3]

https://youtu.be/dEjdnfkk8eY

1971年8月、岐阜県で開催された第3回全日本フォークジャンボリーに出演。同年10月、シングル「たんぽぽ」でデビュー。同年11月、アルバム『GARO』をリリース[4]1973年に「学生街の喫茶店」、「君の誕生日」、「ロマンス」と立て続けにヒットを飛ばし一世を風靡した。

https://youtu.be/5g5wbepbw9E

当時、「フォーク歌手はテレビ出演しない」という流れが一般的であったが[6]、ガロのメンバーは、歌番組はもとより、『象印スターものまね大合戦』や芸能人バレーボール大会等のバラエティ番組にも出演し、物真似を披露したり、競技に参加した。

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