8月 2020
真夜中のギター 1969 千賀かほる
1969年8月発売された、千賀かほるのデビューシングル。1969年10月20日から1970年1月5日までオリコンベストテンにランクイン。売上げ枚数は、44.8万枚。この曲で1969年の第11回日本レコード大賞新人賞を受賞。
演歌みたいなフォークソングみたいな曲ですが何故この時代に青春時代を過ごした多くの人の心に残っています。反戦、アングラ、正統派フォークではありませんが郷愁を感じる曲でした。谷内六郎の絵がなぜか浮かんできました・・谷内六郎フォーク版と感じていました♪
「サニー坊や」1971 真芽正恵 どなたか音源ありませんか?
1971年。
札幌出身の真芽(国分)正恵さんの曲です。
こんなジャケットです! B面は「ひとりごとの愛」
「貝殻節」1969 五つの赤い風船
西岡たかしがパーソナリティーをされていた深夜ラジオでこの曲は男女のラブソングだと教わりました♪
国境の白いバラ 1971 真芽正恵
1971(昭和46)年4月にリリースされた、北海道出身のシンガー、真芽正恵さん3枚目のシングル。
真芽正恵さんは、1970(昭和45)年(昭和44年12月?)「サニー坊や」でデビューし、この曲を含めて4枚のシングルと、1枚のアルバムをリリースしています
この曲は、小川未明の童話「野薔薇」を元にしています
大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣り合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起こらず平和でありました。 ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。
二人は、石碑の建っている右と左に番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしかその辺を旅する人影は見られなかったのです。
初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は敵か味方かというような感じがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人は仲よしになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく退屈であったからであります。そして、春の日は長く、うららかに、頭の上に照り輝いているからでありました。
ちょうど、国境のところには、だれが植えたということもなく、一株の野ばらがしげっていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞こえました。
「どれ、もう起きようか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出ると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝いていました。
二人は、岩間からわき出る清水で口をすすぎ、顔を洗いにまいりますと、顔を合わせました。
「やあ、おはよう。いい天気でございますな。」
「ほんとうにいい天気です。天気がいいと、気持ちがせいせいします。」
二人は、そこでこんな立ち話をしました。たがいに、頭を上げて、あたりの景色をながめました。毎日見ている景色でも、新しい感じを見る度に心に与えるものです。
青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした。けれど老人について、それを教わりましてから、このごろはのどかな昼ごろには、二人は毎日向かい合って将棋を差していました。
初めのうちは、老人のほうがずっと強くて、駒を落として差していましたが、しまいにはあたりまえに差して、老人が負かされることもありました。
この青年も、老人も、いたっていい人々でありました。二人とも正直で、しんせつでありました。二人はいっしょうけんめいで、将棋盤の上で争っても、心は打ち解けていました。
「やあ、これは俺の負けかいな。こう逃げつづけでは苦しくてかなわない。ほんとうの戦争だったら、どんなだかしれん。」と、老人はいって、大きな口を開けて笑いました。
青年は、また勝ちみがあるのでうれしそうな顔つきをして、いっしょうけんめいに目を輝かしながら、相手の王さまを追っていました。
小鳥はこずえの上で、おもしろそうに唄っていました。白いばらの花からは、よい香りを送ってきました。
冬は、やはりその国にもあったのです。寒くなると老人は、南の方を恋しがりました。
その方には、せがれや、孫が住んでいました。
「早く、暇をもらって帰りたいものだ。」と、老人はいいました。
「あなたがお帰りになれば、知らぬ人がかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ならいいが、敵、味方というような考えをもった人だと困ります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春がきます。」と、青年はいいました。
やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮らしていた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも、不思議なことに思われました。
「さあ、おまえさんと私は今日から敵どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから殺してください。」と、老人はいいました。
これを聞くと、青年は、あきれた顔をして、
「なにをいわれますか。どうして私とあなたとが敵どうしでしょう。私の敵は、ほかになければなりません。戦争はずっと北の方で開かれています。私は、そこへいって戦います。」と、青年はいい残して、去ってしまいました。
国境には、ただ一人老人だけが残されました。青年のいなくなった日から、老人は、茫然として日を送りました。野ばらの花が咲いて、みつばちは、日が上がると、暮れるころまで群がっています。いま戦争は、ずっと遠くでしているので、たとえ耳を澄ましても、空をながめても、鉄砲の音も聞こえなければ、黒い煙の影すら見られなかったのであります。老人はその日から、青年の身の上を案じていました。日はこうしてたちました。
ある日のこと、そこを旅人が通りました。老人は戦争について、どうなったかとたずねました。すると、旅人は、小さな国が負けて、その国の兵士はみなごろしになって、戦争は終わったということを告げました。
老人は、そんなら青年も死んだのではないかと思いました。そんなことを気にかけながら石碑の礎に腰をかけて、うつむいていますと、いつか知らず、うとうとと居眠りをしました。かなたから、おおぜいの人のくるけはいがしました。見ると、一列の軍隊でありました。そして馬に乗ってそれを指揮するのは、かの青年でありました。その軍隊はきわめて静粛で声ひとつたてません。やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。
老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったく夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯れてしまいました。その年の秋、老人は南の方へ暇をもらって帰りました。
引用→https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51034_47932.html
えんだん1972五つの赤い風船
作詞 松本隆,作曲 西岡たかし B面は「小さな夢」
大阪の風情を西岡たかしを多く曲にしています。ジャンジャン町ぶるうす、めしや・・・
みんな夢の中 1969 高田恭子
1969のヒット曲、「第11回日本レコード大賞」ではピーター、はしだのりひことシューベルツ、内山田洋とクール・ファイブ、千賀かほると共に、新人賞を獲得した(最優秀新人賞はピーターの「夜と朝のあいだに」)。「第20回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たした
- 高田恭子はソロデビュー前、マイク真木が結成したGSバンド、ザ・マイクスに二代目女性ボーカリストとして加入し、シングル「星空のマサチューセッツ」(1967年12月、フィリップスレコード)を発売している。
竹田の子守歌1969 赤い鳥
1965年1月、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品、住井すゑ原作の『橋のない川』で尾上和彦が多泉和人(おおいずみかずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり[3]、被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母から情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったもので[4]、それが合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達にも広まりその1人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった[5]。
後藤悦治郎は関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で大塚孝彦、高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴いて本作を初めて知って感銘を受け、この一曲で英語の歌ばかりだったと不満が発散して後藤が率いていたフーツエミールは解散[9]。後藤は新結成した赤い鳥のスタート当初は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱、グランプを飾り、デビュー作としてシングルレコードを発売した[10]。
「橋のない川」は学校の映画鑑賞で阪南松竹で観た映画です。
伏見で勤務した時は竹田の子守歌をよく思い浮かべました。
さよならは言わないで 1969 ザ・モダンフォーク・フェローズ
ニッポン放送のラジオ番組、「ヤング・ヤング・ヤング」で公募し優勝した曲
「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」1965年結成。 メンバーは渕田隆大、平沼遼太郎、稲生ニ平。 ボーカルで途中参加の大山展代
60年代の終わりごろから70年代にかけて、「GSブーム」が消え「フォーク・ブーム」が始まろうとしていた頃、60年代後「キャンパ・スフォーク」の流れが起こりました。さわやかサウンドが特徴でした。「フォーセインツ」「ザ・ブロードサイド・フォー」「PPMフォロワーズ」「モダン・フォーク・カルテット」「ニュー・フロンティア-ズ」「グリーメン」などのグループがありました。
戦争は知らない 1961 フォークルセダーズ
昭和41(1966)年フォークルセダーズのヒット曲。
実際にシングルが発売されたのは、1年限りのプロ活動期間中という1968年で、「さすらいのヨッパライ」のB面
作詞は寺山修司 作曲は大阪のGSリンド&リンダーズの加藤ヒロシ 最初のレコードは坂本スミコだった。
ヒットしませんでしたが、寺山修司の愛弟子だったカルメンマキ、フォークル、頭脳警察、かとう寺山修司の愛弟子だったカルメンマキ、フォークル、本田瑠津子、頭脳警察、加藤登紀子、元チトセによって現在に歌い継がれている曲です。