8月 2020

真夜中のギター 1969 千賀かほる

1969年8月発売された、千賀かほるのデビューシングル。1969年10月20日から1970年1月5日までオリコンベストテンにランクイン。売上げ枚数は、44.8万枚。この曲で1969年の第11回日本レコード大賞新人賞を受賞。

https://youtu.be/U4z7UwmdzDQ

演歌みたいなフォークソングみたいな曲ですが何故この時代に青春時代を過ごした多くの人の心に残っています。反戦、アングラ、正統派フォークではありませんが郷愁を感じる曲でした。谷内六郎の絵がなぜか浮かんできました・・谷内六郎フォーク版と感じていました♪

https://youtu.be/v7K6-7b4SpM

「貝殻節」1969 五つの赤い風船

https://youtu.be/RC7l-l1ONss

西岡たかしがパーソナリティーをされていた深夜ラジオでこの曲は男女のラブソングだと教わりました♪

https://youtu.be/0DLzaR5NONU
https://youtu.be/4wBhzeCbxAg

国境の白いバラ 1971 真芽正恵

1971(昭和46)年4月にリリースされた、北海道出身のシンガー、真芽正恵さん3枚目のシングル。

https://youtu.be/jxQYbBKEcK0


真芽正恵さんは、1970(昭和45)年(昭和44年12月?)「サニー坊や」でデビューし、この曲を含めて4枚のシングルと、1枚のアルバムをリリースしています

この曲は、小川未明の童話「野薔薇」を元にしています

大きなくにと、それよりはすこしちいさなくにとがとなっていました。当座とうざ、その二つのくにあいだには、なにごともこらず平和へいわでありました。 ここはみやこからとおい、国境こっきょうであります。そこには両方りょうほうくにから、ただ一人ひとりずつの兵隊へいたい派遣はけんされて、国境こっきょうさだめた石碑せきひまもっていました。おおきなくに兵士へいし老人ろうじんでありました。そうして、ちいさなくに兵士へいし青年せいねんでありました。
二人ふたりは、石碑せきひっているみぎひだりばんをしていました。いたってさびしいやまでありました。そして、まれにしかそのへんたびする人影ひとかげられなかったのです。


はじめ、たがいにかおわないあいだは、二人ふたりてき味方みかたかというようなかんじがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人ふたりなかよしになってしまいました。二人ふたりは、ほかにはなしをする相手あいてもなく退屈たいくつであったからであります。そして、はるながく、うららかに、あたまうえかがやいているからでありました。
 ちょうど、国境こっきょうのところには、だれがえたということもなく、一株ひとかぶばらがしげっていました。そのはなには、朝早あさはやくからみつばちがんできてあつまっていました。そのこころよ羽音はおとが、まだ二人ふたりねむっているうちから、夢心地ゆめごこちみみこえました。


「どれ、もうきようか。あんなにみつばちがきている。」と、二人ふたりもうわせたようにきました。そしてそとると、はたして、太陽たいようのこずえのうえ元気げんきよくかがやいていました。
二人ふたりは、岩間いわまからわき清水しみずくちをすすぎ、かおあらいにまいりますと、かおわせました。
「やあ、おはよう。いい天気てんきでございますな。」
「ほんとうにいい天気てんきです。天気てんきがいいと、気持きもちがせいせいします。」
二人ふたりは、そこでこんなばなしをしました。たがいに、あたまげて、あたりの景色けしきをながめました。毎日まいにちている景色けしきでも、あたらしいかんじをたびこころあたえるものです。
青年せいねん最初さいしょ将棋しょうぎあゆかたりませんでした。けれど老人ろうじんについて、それをおそわりましてから、このごろはのどかなひるごろには、二人ふたり毎日まいにちかいって将棋しょうぎしていました。
はじめのうちは、老人ろうじんのほうがずっとつよくて、こまとしてしていましたが、しまいにはあたりまえにして、老人ろうじんかされることもありました。
 この青年せいねんも、老人ろうじんも、いたっていい人々ひとびとでありました。二人ふたりとも正直しょうじきで、しんせつでありました。二人ふたりはいっしょうけんめいで、将棋盤しょうぎばんうえあらそっても、こころけていました。
「やあ、これはおれけかいな。こうげつづけではくるしくてかなわない。ほんとうの戦争せんそうだったら、どんなだかしれん。」と、老人ろうじんはいって、おおきなくちけてわらいました。
青年せいねんは、またちみがあるのでうれしそうなかおつきをして、いっしょうけんめいにかがやかしながら、相手あいておうさまをっていました。
小鳥ことりはこずえのうえで、おもしろそうにうたっていました。しろいばらのはなからは、よいかおりをおくってきました。


ふゆは、やはりそのくににもあったのです。さむくなると老人ろうじんは、みなみほうこいしがりました。
 そのほうには、せがれや、まごんでいました。
はやく、ひまをもらってかえりたいものだ。」と、老人ろうじんはいいました。
「あなたがおかえりになれば、らぬひとがかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしいひとならいいが、てき味方みかたというようなかんがえをもったひとだとこまります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、はるがきます。」と、青年せいねんはいいました。


 やがてふゆって、またはるとなりました。ちょうどそのころ、この二つのくには、なにかの利益りえき問題もんだいから、戦争せんそうはじめました。そうしますと、これまで毎日まいにちなかむつまじく、らしていた二人ふたりは、てき味方みかた間柄あいだがらになったのです。それがいかにも、不思議ふしぎなことにおもわれました。
「さあ、おまえさんとわたし今日きょうからかたきどうしになったのだ。わたしはこんなにいぼれていても少佐しょうさだから、わたしくびってゆけば、あなたは出世しゅっせができる。だからころしてください。」と、老人ろうじんはいいました。
 これをくと、青年せいねんは、あきれたかおをして、
「なにをいわれますか。どうしてわたしとあなたとがかたきどうしでしょう。わたしてきは、ほかになければなりません。戦争せんそうはずっときたほうひらかれています。わたしは、そこへいってたたかいます。」と、青年せいねんはいいのこして、ってしまいました。


国境こっきょうには、ただ一人ひとり老人ろうじんだけがのこされました。青年せいねんのいなくなったから、老人ろうじんは、茫然ぼうぜんとしておくりました。ばらのはないて、みつばちは、がると、れるころまでむらがっています。いま戦争せんそうは、ずっととおくでしているので、たとえみみましても、そらをながめても、鉄砲てっぽうおとこえなければ、くろけむりかげすらられなかったのであります。老人ろうじんはそのから、青年せいねんうえあんじていました。はこうしてたちました。


 あるのこと、そこを旅人たびびととおりました。老人ろうじん戦争せんそうについて、どうなったかとたずねました。すると、旅人たびびとは、ちいさなくにけて、そのくに兵士へいしはみなごろしになって、戦争せんそうわったということをげました。
老人ろうじんは、そんなら青年せいねんんだのではないかとおもいました。そんなことをにかけながら石碑せきひいしずえこしをかけて、うつむいていますと、いつからず、うとうとと居眠いねむりをしました。かなたから、おおぜいのひとのくるけはいがしました。ると、一れつ軍隊ぐんたいでありました。そしてうまってそれを指揮しきするのは、かの青年せいねんでありました。その軍隊ぐんたいはきわめて静粛せいしゅくこえひとつたてません。やがて老人ろうじんまえとおるときに、青年せいねん黙礼もくれいをして、ばらのはなをかいだのでありました。


老人ろうじんは、なにかものをいおうとするとがさめました。それはまったくゆめであったのです。それから一月ひとつきばかりしますと、ばらがれてしまいました。そのとしあき老人ろうじんみなみほうひまをもらってかえりました。

引用→https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51034_47932.html

えんだん1972五つの赤い風船

作詞 松本隆,作曲 西岡たかし B面は「小さな夢」

https://youtu.be/GS1gnJJueNc

大阪の風情を西岡たかしを多く曲にしています。ジャンジャン町ぶるうす、めしや・・・

https://youtu.be/MIfnyslGFmo

https://youtu.be/80vwzVdIGBU

みんな夢の中 1969 高田恭子

1969のヒット曲、「第11回日本レコード大賞」ではピーターはしだのりひことシューベルツ内山田洋とクール・ファイブ千賀かほると共に、新人賞を獲得した(最優秀新人賞はピーターの「夜と朝のあいだに」)。「第20回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たした

https://youtu.be/7zLQJ7LywLQ
https://youtu.be/lpf5rv2ue2Q

竹田の子守歌1969 赤い鳥

1965年1月、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品、住井すゑ原作の『橋のない川』で尾上和彦が多泉和人(おおいずみかずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり[3]、被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母から情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったもので[4]、それが合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達にも広まりその1人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった[5]

https://youtu.be/ZI1HAaEr0Ng

後藤悦治郎は関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で大塚孝彦高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴いて本作を初めて知って感銘を受け、この一曲で英語の歌ばかりだったと不満が発散して後藤が率いていたフーツエミールは解散[9]。後藤は新結成した赤い鳥のスタート当初は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱、グランプを飾り、デビュー作としてシングルレコードを発売した[10]

https://youtu.be/R4LawsrMcr4

「橋のない川」は学校の映画鑑賞で阪南松竹で観た映画です。
 伏見で勤務した時は竹田の子守歌をよく思い浮かべました。

さよならは言わないで 1969 ザ・モダンフォーク・フェローズ

ニッポン放送のラジオ番組、「ヤング・ヤング・ヤング」で公募し優勝した曲

https://youtu.be/c-DJVR8Y6yI

「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」1965年結成。 メンバーは渕田隆大、平沼遼太郎、稲生ニ平。 ボーカルで途中参加の大山展代

60年代の終わりごろから70年代にかけて、「GSブーム」が消え「フォーク・ブーム」が始まろうとしていた頃、60年代後「キャンパ・スフォーク」の流れが起こりました。さわやかサウンドが特徴でした。「フォーセインツ」「ザ・ブロードサイド・フォー」「PPMフォロワーズ」「モダン・フォーク・カルテット」「ニュー・フロンティア-ズ」「グリーメン」などのグループがありました。

戦争は知らない 1961 フォークルセダーズ

昭和41(1966)年フォークルセダーズのヒット曲。
実際にシングルが発売されたのは、1年限りのプロ活動期間中という1968年で、「さすらいのヨッパライ」のB面

https://youtu.be/sqG00PIDaQQ

作詞は寺山修司 作曲は大阪のGSリンド&リンダーズの加藤ヒロシ  最初のレコードは坂本スミコだった。

ヒットしませんでしたが、寺山修司の愛弟子だったカルメンマキ、フォークル、頭脳警察、かとう寺山修司の愛弟子だったカルメンマキ、フォークル、本田瑠津子、頭脳警察、加藤登紀子、元チトセによって現在に歌い継がれている曲です。

https://youtu.be/PI1E895tQUY

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