8月 2020

禁じられた恋 1969 森山良子

1969年3月リリース。オリコンチャート8週連続で1位を獲得、80万枚の売り上げを記録し、同年の『第11回日本レコード大賞』では作詩賞を受賞。この曲で『第20回NHK紅白歌合戦』に初の出場を果たした。

https://youtu.be/ly7wEgoS-Gc

成城学園高校時代、先輩の黒澤久雄に手渡されたジョーン・バエズのレコードがきっかけで友人らとフォークグループを結成した。作品がラジオで流れたのがきっかけで、19歳になった1967年に、黒澤プロダクション所属のソロ歌手として、「この広い野原いっぱい」でレコードデビュー。黒澤プロの所属になったのは、黒澤家をたびたび訪問し歌も披露していた森山が歌手になると聞いた黒澤明の意向だった。この時期の森山はカレッジフォークに分類される[1]

デビュー当初はォーク歌手のイメージだったが[2]1969年山上路夫作詞・三木たかし作曲による「まごころ」のヒットで、日本レコード大賞大衆賞を受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場したことから、"フォークから歌謡曲の女王"になったと評された[2]

近年こんな曲も作っておられる♪

https://youtu.be/Ymb0Zi-MEQA
https://youtu.be/rHo64JHbUhc

涙は花びら 1968 ザ・フローラル

宇野亜喜良作詞、村井邦彦作曲。クラシカルサイケデリックポップ。フローラルはモンキーズファンクラブ日本支部の企画で結成されたGSバンドで小坂忠、柳田ヒロ在籍、エイプリルフール、はっぴいえんどの原点となった。エイプリルフールで細野晴臣がベース、松本隆がドラムで参加した。

https://youtu.be/EarpSAP_h80

さっき君が 1970 溶けだしたガラス箱

溶け出したガラス箱」に収録。「溶け出したガラス箱」は木田高介西岡たかし斉藤哲夫の3人によるユニット名義の1970年11月に、URCレコードより発売されたスタジオプロジェクトによるアルバム。ゲストとして加藤和彦細野晴臣竹田和夫上村律夫が参加している。

https://youtu.be/GwIm5lzOcyg

木田高介~参加した早川義男のジャックスが1969年解散、六文銭に一時在籍した後、編曲家となり、五つの赤い風船フォーリーブスかぐや姫バンバン山室英美子トワ・エ・モワりりィなどをプロデュースや編曲した。
出発の歌」(上條恒彦)、「神田川」(かぐや姫)、「私は泣いています」(りりィ)、「結婚するって本当ですか」(ダ・カーポ)など数々のヒット曲がある。

1975年から1980年の間ザ・ナターシャー・セブンに参加した後、ソロ活動を始めた矢先、1980年5月18日交通事故で死去した。享年31歳だった。

https://youtu.be/sVrb0pYJkGI

事故から約1ヶ月後の1980年6月29日、日比谷野外音楽堂で「木田高介・阿部晴彦追悼コンサート」が開かれ、1万人近くのファンが集まった。この日は明け方には地震があり一日中、雨模様であった。北山修自切俳人)が泣きながら「帰って来たヨッパライ」を、オフコースは「いつもいつも」をアカペラで、吉田拓郎は「アジアの片隅で」を披露した。またかぐや姫は一日限り再結成した。

https://youtu.be/rZdpv1UzaU4

参加ミュージシャンは以下の通り:ザ・ナターシャー・セブン(高石・坂庭・城田と石川鷹彦)、オフコース小田鈴木大間・清水・松尾)、かぐや姫伊勢山田)、(伊勢・大久保)、五つの赤い風船(西岡・長野・東・藤原)、吉田拓郎小室等遠藤賢司斉藤哲夫下田逸郎かまやつひろしイルカ、りりィ(国吉良一+土屋昌巳)、はしだのりひこ、ダ・カーポ、山本コウタロー五輪真弓加川良沢田聖子ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド(坂庭の弟も出演)、金子マリとバックスバニー、チャースピードウェイスクランブル・エッグ上条恒彦倍賞千恵子吉川忠英瀬尾一三岡本おさみ喜多条忠

木田の葬儀に参列した五輪真弓が木田の妻の悲嘆ぶりを目の当たりにし、それを基にして作った楽曲が彼女の代表作となる「恋人よ」であった。

朝 1972 武蔵野タンポポ団

武蔵野タンポポ団は1971の第3回フォークジャンボリーに参加


深夜ラジオ「チャチャヤング」できいた曲です♪ 深夜ラジオの世界が、夜が白けていくとともに消えうせて現実に戻っていきました・・

https://youtu.be/aGBWhe_Muw4
https://youtu.be/UzWhDWL-9jU

https://youtu.be/unDWZBk51DY

1972年の今日、1月10日はアルバム『武蔵野タンポポ団の伝説』がリリースされた日である。

1971年の初夏、場所は東京の吉祥寺。そこにぐゎらん堂という店があった。そのぐゎらん堂のビルの屋上で、私はかの高田渡(以後渡と表記)、シバ、若林純夫、村瀬雅美といった面々とギターを弾いていた。タンポポ団のスタートである。私は若林に声をかけられてこのグループに参加した。渡はというと、彼はこのバンドで夏にある第三回中津川フォークジャンボリーに出演することを考えていた。目標があればメンバーの士気は高まる。その上、結成ホヤホヤのバンドが演奏する場所は屋上から階段を少し降りれば、フォーク喫茶+酒場のぐゎらん堂がある。そこでお客さん達の反応を見ながらステージを重ねていけば間違いはない。

そして、夏が来た。中津川の熱気はこの年も高まっていた。その中でも去年より声高に感じられたのが「帰れコール」だった。ステージ上の歌手に金を払って観に来た聴衆が「帰れっ!」と叫ぶのだからもったいない話だが、当時のフォークファン、特にいわゆる関西フォークのファンの多くは、歌い手と聞き手という線の引き方をしていなかったように思う。彼らにとってみれば、自分たちの代表がフォーク歌手であり、仲間の延長なのだ。だから、ポップな、仲間とは思えない歌手が登場すると、「帰れっ!」となる。

さて、いよいよタンポポ団の出番、どうなるんだろう? なんせ全く無名の存在なのだから・・・。結果は、大いにウケた。そりゃ渡の他に加川良も登場し、岩井宏や中川イサトがセッションに加わったわけだからウケないはずがない。どころか、中津川以降、噂がウワサを呼んで、あちこちから声がかかった。多くの場合、渡の出演するコンサートに金魚のフンの如くメンバーがくっついて行って、ついでにタンポポ団として出演するパターンだったが、ちゃんとコンサート出演者に名を連ねていた。

そうしたタンポポ団が、なぜ「伝説」と呼ばれるようになったのだろう。一つは、バンドに聴衆が求めるものの大きな要素、本物の“仲の良さ”があったからだろう。実際メンバーの殆どが吉祥寺に暮らし、ぐゎらん堂をたまり場として、日々近くの店を飲み歩く。ステージでも和気合々、曲間のおしゃべりも掛け合い漫才のようだった。その暖かさの中に、意外な飛び入りメンバーが入ってくる。そのワクワク感もたまらない。もう一つは、曲がシンプルなこと。難しいコードも無く、リズム上の仕掛けもない。ギターのスリーコードさえ弾ければ誰でもが参加できそうだ。まさに聴衆にとってはステージの高さを感じない、仲間的な歌手とのひとときを楽しめるのだ。そして、その歌の内容は自分たちの暮しや思いをしっかりと言葉にしてくれている。奥が深い。こうした温もり感が一層プロ化していこうとするフォークの流れと逆行するように、フォークの源流を知る、共に歌いたい若者たちを惹きつけていったに違いない。  ~山本コータロー~

かみしばい 1972 岩井宏

シシングルレコード1972年発売

https://youtu.be/kFejTZTt8Z8

深夜ラジオ「チャチャヤング」で聞いた曲です、岩井宏はフォークジャンボリーに1969年の第一回から参加していました。

岩井宏について~1966年、はしだのりひこ、北山修、加藤和彦、杉田二郎らと京都フォークソング集団のAFL(アソシエイティッド・フォークロリスト)の呼びかけ人。1968年、すでに就職していたが、京都YMCAでの高石ともやコンサートがきっかけでバンジョーで高田をサポートするようになる。同年、東京・原宿で設立された音楽出版社・アート音楽出版(高石ともや事務所やURCレコード関連の版権管理などの会社)の社員になる[1]

「チャチャヤング」~1970年に始まったMBS の深夜ラジオ番組、加川良とともに水曜日のレギュラーとして出演した。(火曜日は、西岡たかしが担当)。

https://youtu.be/4ZdIwDB_dQI

1971年8月の「第3回全日本フォークジャンボリー」でも、サブステージにて、高田渡の「自転車にのって」「生活の柄」を加川良とサポート。また加川良の「教訓Ⅰ(この時、加川は「教訓Ⅲ」と呼んでいる。)」もサポート。ソロでも自作の「かみしばい」、「サラリーマンをバカにしちゃダメよ」、「赤ん坊さんよ負けるなよ」の演奏が実況録音盤に収録されている[8]。高田渡、加川良と3人での演奏が多く、客席が笑いに包まれることから「3バカトリオ」と呼ばれる。

望郷 1975 山崎ハコ

https://youtu.be/6YGzha24zSQ

故郷への深い想いが伝わってくる山崎ハコさんを代表する名曲です。 デビューアルバム「飛・び・ま・す」

大分県日田市出身。父親の仕事の関係で、中学生の途中から卒業までを祖母と日田市で暮らす。卒業後、両親の待つ横浜へ。横浜学園高等学校在学中、コンテストへの出場が切っ掛けで1975年にアルバム『飛・び・ま・す』でレコードデビュー[1]。150センチあるかないかの小柄で痩せた体躯からは想像もできないパワフルな声量・表現力を誇る歌唱と、暗く鋭く愛から社会を抉る歌詞で、デビュー当時は「中島みゆきのライバル」と云われた。

https://youtu.be/hOGUHjdDPek

山谷ブルース1968 岡林信康

1968年9月ビクターよりリリース、岡林信康のデビュー曲です。作詞:平賀久裕・岡林信康、作曲・編曲:岡林信康歌:岡林信康ギター:加藤和彦[9] B面は「ともよ」

本来はおじゃまします』とのカップリングで初リリースシングルになるはずだったのが、『ほんじゃまあおじゃまします』が発売中止となった。

https://youtu.be/H37HfTqzawo

歌詞の内容は、山谷の住人である日雇労働者が、独白する内容となっており[1]、これは岡林本人が山谷で日雇い労働者として働いていたときに経験した内容が元になっている[2]。山谷に日雇い労働者で働いていた時期、同志社大学神学部の平賀久裕から、山谷に案内してほしいと頼まれ、一緒に山谷に滞在していた際に、彼が当時流行っていた扇ひろこの「新宿ブルース」の替え歌として、この歌の原型を作った[3][4][5][6]。平賀が作った詩を、山谷で一緒に働き、後にURCレコード社員になる田頭道登が自費出版『山谷のキリスト者』三号に掲載し、それを岡林に送って岡林が補作してできあがった[4]。最初にできた詩と、岡林信康が補作した詩では、一番以外大幅に変更されている[4]

https://youtu.be/I6GmSH2SP0o
  • この歌がヒットしたとき、ビクターレコードからヒット賞なるものをもらい、ビクターのトレードマークとなっているちょこんと首をかしげた子犬のブロンズ像をもらった。それを平賀にプレゼントしたところ、大喜びでそれを行きつけの居酒屋に飾って、毎晩チビチビやっていたという[3]
  • 「山谷ブルース」が出て、結構売れたら、ビクターレコードが「森進一の次の演歌歌手として育てたいから、岡林のことはビクターに任してくれ」と言ってきたが、当時所属していた高石音楽事務所が「冗談じゃない」と蹴った。「もしその時アホな事務所に入っていて、第二の森進一の道を歩まされていたら、どういうことになっていたんだろう(笑)」と述懐している[7]
  • 1977年の中村とうようとの対談の中で、小さい頃から賛美歌中心で育ってきた中で、どうして演歌調の曲が作れたんだという問いに、高石友也が作ったアルバムの中に演歌調の曲があり、「そのころぼくはフォーク言うたら英語で歌うもんやと思うてたから、キングストン・トリオみたいな。そしたら高石さんが、釜ヶ崎で拾った歌やとか、そんなのを歌うてて、それがうれしくて、そこから『山谷ブルース』ができたちゅうこともあるね」と語っている。ただ、高石本人は演歌調の曲をアルバムに入れることに抵抗があったが、ビクターレコードから「演歌調の曲を入れないと売れない」と言われ、イヤイヤ入れたと後から聞いて、びっくりしたという。岡林は高石本人にフォークの既成概念を破ってくれた思いを、「それであんたが好きになったんや」と伝えたところ、弁明しづらかったらしく「ムニャムニャ言うてたわ(笑)」とのこと[8]

恋したら1970 グリーメン

作詞北山修 作曲加藤和彦 編曲は葵まさひこ
葵まさひこさんは「あの素晴らしい愛をもう一度」など編曲しています。グループ名のグリーメンとは「吟遊詩人」の意味らしいです。

https://youtu.be/2anlcmbcaE8

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