1960/S35~S45

誰のために 1970 赤い鳥

赤い鳥~。1969年に結成、メンバーは、後藤悦治郎、平山泰代、(1974年2月に後藤と結婚)、山本俊彦、新居潤子(1973年4月に山本と結婚)、大川茂(ベース)、1969年加入、後藤が、尼崎北高校の同級生だった平山さんと1967年から兵庫県尼崎市で毎月一回定期的に開催していた〈赤い屋根の家コンサート〉から1968年に誕生した。路線対立から1974年9月に解散。後藤・平山夫妻は「紙ふうせん」、山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、渡辺は「ハミング・バード」を結成した。

 コンサートでは当初、後藤悦治郎&平山泰代の名称で一緒に歌っていた。レパートリーは「竹田の子守唄」等の日本の伝承歌ばかり。その後、後藤が男女混声のグループを結成しようとメンバーを集めた。高校1年時にカルチャーショックを受けたPPM(ピーター・ポール&マリー)のハーモニーを再現するためのグループである。
 マリーの迫力ある声に対抗するために平山さんのほかにもう一人女性を入れてユニゾンで歌わせる。ハーモニーをつけるのは男性陣。そこで当時谷村新司氏率いるヒルビリー・シンガーズ」の新居潤子を引き抜いた、一緒についてきたのが同じグループにいて新居さんのヴォーカルに惚れ込んでいた山本だった。 

 1969年、ベース担当の松田氏が脱退すると、グループの活動を知り、会社員を辞めて大川さんが参加した。
 この加入は赤い鳥にとって大きな意味を持つのではないかと思う。その後のオリジナル曲において、山本さんとのコンビで後藤さんの世界とは違うもうひとつの赤い鳥の世界を作りだすことに成功している。がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。各地の子守唄・伝承されている歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ(en:Tony Macaulay)などの曲提供によりアルバムを発表するなどいわゆるソフトロック的な音楽性も兼ね備えていた(そのため、関西地区で結成されたグループであるが、関西フォークとは一線を画していた)。[後期にはウッドストックの影響で、ロック色の強い音作りをしたが[1]、基本的には赤い鳥は民謡とフィフス・ディメンションのようなコーラスものの両方をレパートリーにした[1]

1969年「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。「竹田の子守唄」、「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得した。このコンテストにはオフコース(当時は「ジ・オフ・コース」)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」)も出場しており、財津和夫はオフコースに、小田和正は赤い鳥にそれぞれ「負けた」と思ったという。村井邦彦は東京から尼崎まで赤いポルシェで駆けつけたらしいです。

1970年4月に渡欧、ロンドンでレコーディングを行う。6月に日本コロムビアからシングル「人生」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。9月、東芝EMIレコード/Liberty レーベルに移籍。10月、合歓ポピュラーフェスティバル’70に出場、「翼をください」で新人奨励賞を受賞する。1971年2月発売の「竹田の子守唄/翼をください」が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。

新井啓介さんの「もう一つの夕景工房」等から引用しました。

赤い鳥、70年代、大阪、フォークディオ、ヤマハ、グランプリの連想から、次回はチューインガムを予定しています! 

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