1965年1月、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品、住井すゑ原作の『橋のない川』で尾上和彦が多泉和人(おおいずみかずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり[3]、被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母から情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったもので[4]、それが合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達にも広まりその1人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった[5]。
後藤悦治郎は関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で大塚孝彦、高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴いて本作を初めて知って感銘を受け、この一曲で英語の歌ばかりだったと不満が発散して後藤が率いていたフーツエミールは解散[9]。後藤は新結成した赤い鳥のスタート当初は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱、グランプを飾り、デビュー作としてシングルレコードを発売した[10]。
「橋のない川」は学校の映画鑑賞で阪南松竹で観た映画です。
伏見で勤務した時は竹田の子守歌をよく思い浮かべました。
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この曲の歌詞、幼い頃は全く意味が解らなかった。
色んな伝説や由来話しなどがあることも後に知った。
「在所」と言う言葉ひとつにとっても意味深い内容の歌詞。
貧困、不自由、不透明、そんな風情が目の前に広がってくる。
また、奉公先での女の子の辛さ、苦しみ、悲しみ、歌詞には出ていないが意味を知ったとき痛感した。