1968年9月ビクターよりリリース、岡林信康のデビュー曲です。作詞:平賀久裕・岡林信康、作曲・編曲:岡林信康歌:岡林信康ギター:加藤和彦[9] B面は「ともよ」
本来はおじゃまします』とのカップリングで初リリースシングルになるはずだったのが、『ほんじゃまあおじゃまします』が発売中止となった。
歌詞の内容は、山谷の住人である日雇労働者が、独白する内容となっており[1]、これは岡林本人が山谷で日雇い労働者として働いていたときに経験した内容が元になっている[2]。山谷に日雇い労働者で働いていた時期、同志社大学神学部の平賀久裕から、山谷に案内してほしいと頼まれ、一緒に山谷に滞在していた際に、彼が当時流行っていた扇ひろこの「新宿ブルース」の替え歌として、この歌の原型を作った[3][4][5][6]。平賀が作った詩を、山谷で一緒に働き、後にURCレコード社員になる田頭道登が自費出版『山谷のキリスト者』三号に掲載し、それを岡林に送って岡林が補作してできあがった[4]。最初にできた詩と、岡林信康が補作した詩では、一番以外大幅に変更されている[4]。
- この歌がヒットしたとき、ビクターレコードからヒット賞なるものをもらい、ビクターのトレードマークとなっているちょこんと首をかしげた子犬のブロンズ像をもらった。それを平賀にプレゼントしたところ、大喜びでそれを行きつけの居酒屋に飾って、毎晩チビチビやっていたという[3]。
- 「山谷ブルース」が出て、結構売れたら、ビクターレコードが「森進一の次の演歌歌手として育てたいから、岡林のことはビクターに任してくれ」と言ってきたが、当時所属していた高石音楽事務所が「冗談じゃない」と蹴った。「もしその時アホな事務所に入っていて、第二の森進一の道を歩まされていたら、どういうことになっていたんだろう(笑)」と述懐している[7]。
- 1977年の中村とうようとの対談の中で、小さい頃から賛美歌中心で育ってきた中で、どうして演歌調の曲が作れたんだという問いに、高石友也が作ったアルバムの中に演歌調の曲があり、「そのころぼくはフォーク言うたら英語で歌うもんやと思うてたから、キングストン・トリオみたいな。そしたら高石さんが、釜ヶ崎で拾った歌やとか、そんなのを歌うてて、それがうれしくて、そこから『山谷ブルース』ができたちゅうこともあるね」と語っている。ただ、高石本人は演歌調の曲をアルバムに入れることに抵抗があったが、ビクターレコードから「演歌調の曲を入れないと売れない」と言われ、イヤイヤ入れたと後から聞いて、びっくりしたという。岡林は高石本人にフォークの既成概念を破ってくれた思いを、「それであんたが好きになったんや」と伝えたところ、弁明しづらかったらしく「ムニャムニャ言うてたわ(笑)」とのこと[8]。
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釜ヶ崎の北端の「新今宮」は、天王寺に行く高校時代の乗り換え駅でした。自宅からは上町線で乗換なしで天王寺に行けるのですが、祝日に新世界で映画を観るためこちらの定期券を購入して通学していました。
*新世界は怖いとかいう人がいましたが、釜ヶ崎(あいりん地区)と新世界の区別がついてないのではないかと思いした。