1971/S46~S55

朝 1972 武蔵野タンポポ団

武蔵野タンポポ団は1971の第3回フォークジャンボリーに参加


深夜ラジオ「チャチャヤング」できいた曲です♪ 深夜ラジオの世界が、夜が白けていくとともに消えうせて現実に戻っていきました・・

1972年の今日、1月10日はアルバム『武蔵野タンポポ団の伝説』がリリースされた日である。

1971年の初夏、場所は東京の吉祥寺。そこにぐゎらん堂という店があった。そのぐゎらん堂のビルの屋上で、私はかの高田渡(以後渡と表記)、シバ、若林純夫、村瀬雅美といった面々とギターを弾いていた。タンポポ団のスタートである。私は若林に声をかけられてこのグループに参加した。渡はというと、彼はこのバンドで夏にある第三回中津川フォークジャンボリーに出演することを考えていた。目標があればメンバーの士気は高まる。その上、結成ホヤホヤのバンドが演奏する場所は屋上から階段を少し降りれば、フォーク喫茶+酒場のぐゎらん堂がある。そこでお客さん達の反応を見ながらステージを重ねていけば間違いはない。

そして、夏が来た。中津川の熱気はこの年も高まっていた。その中でも去年より声高に感じられたのが「帰れコール」だった。ステージ上の歌手に金を払って観に来た聴衆が「帰れっ!」と叫ぶのだからもったいない話だが、当時のフォークファン、特にいわゆる関西フォークのファンの多くは、歌い手と聞き手という線の引き方をしていなかったように思う。彼らにとってみれば、自分たちの代表がフォーク歌手であり、仲間の延長なのだ。だから、ポップな、仲間とは思えない歌手が登場すると、「帰れっ!」となる。

さて、いよいよタンポポ団の出番、どうなるんだろう? なんせ全く無名の存在なのだから・・・。結果は、大いにウケた。そりゃ渡の他に加川良も登場し、岩井宏や中川イサトがセッションに加わったわけだからウケないはずがない。どころか、中津川以降、噂がウワサを呼んで、あちこちから声がかかった。多くの場合、渡の出演するコンサートに金魚のフンの如くメンバーがくっついて行って、ついでにタンポポ団として出演するパターンだったが、ちゃんとコンサート出演者に名を連ねていた。

そうしたタンポポ団が、なぜ「伝説」と呼ばれるようになったのだろう。一つは、バンドに聴衆が求めるものの大きな要素、本物の“仲の良さ”があったからだろう。実際メンバーの殆どが吉祥寺に暮らし、ぐゎらん堂をたまり場として、日々近くの店を飲み歩く。ステージでも和気合々、曲間のおしゃべりも掛け合い漫才のようだった。その暖かさの中に、意外な飛び入りメンバーが入ってくる。そのワクワク感もたまらない。もう一つは、曲がシンプルなこと。難しいコードも無く、リズム上の仕掛けもない。ギターのスリーコードさえ弾ければ誰でもが参加できそうだ。まさに聴衆にとってはステージの高さを感じない、仲間的な歌手とのひとときを楽しめるのだ。そして、その歌の内容は自分たちの暮しや思いをしっかりと言葉にしてくれている。奥が深い。こうした温もり感が一層プロ化していこうとするフォークの流れと逆行するように、フォークの源流を知る、共に歌いたい若者たちを惹きつけていったに違いない。  ~山本コータロー~

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