1914年(大正3年)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌。
•作詞者は不詳とされていたが、平成元年に長女である典子さんが、入選通知と著作権譲渡要請の手紙の保管をしていたことを新聞等で公表して、文部省の懸賞募集に応募した鹿児島市出身の宮原晃一郎(1882-1945)の詩と判明した。 10歳まで住んでいた故郷鹿児島の天保山公園の海岸から見ての桜島を思い浮かべて作詞されたと言われてます。 •鹿児島市の祇園之洲公園には歌碑が建てられている。鹿児島市民の有志が音頭を取り募金(1千万円以上)を集めて、鹿児島の桜島が見える祇園の洲公園に「われは海の子」の歌碑(縦1.7m、横3m)を建てました。福井湾を思い浮かべた作詞したという説もあります、
写真は浜寺公園です。当時は金持ちの別荘がならぶのどかな遠浅の海岸でした。小学校の時遠足で行きました~現在は埋め立てられ工業地帯になっています。
公園周辺の泉北郡浜寺町一帯は大正から昭和初期にかけて別荘地となり、夏期は海水浴場として大変な賑わいを見せた。浜寺海水浴場は大阪毎日新聞社と南海鉄道が開設したもので、阪堺線の駅前と言うこともあり、旧堺港南側の大浜公園および大浜海水浴場と並んで一大レジャースポットであった。かつて園内には数件の料亭が営まれており、堺市出身の与謝野晶子が与謝野鉄幹と親しくなった歌会も行なわれ、現在は晶子の句碑が存在する。
1945年(昭和20年)から1958年(昭和33年)までアメリカ軍に接収され、解除後わずか3年で泉北臨海工業地帯の埋立造成が始まった。海水浴場は姿を消したが、浜寺公園の松林の保存などを目的に浜寺水路が建設され、辛うじて往時を偲ぶことができる。