8月 2020

紅葉 明治44

【作詞】高野 辰之【作曲】岡野 貞一 1911年(明44)に刊行された「尋常小学唱歌」に収められています。

https://youtu.be/Oz5AHnfol5U


唱歌「紅葉(もみじ)」を作詞した高野辰之は、1876年(明9)に長野県で生まれました。1910年(明43)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授になり、小学唱歌教科書の編纂委員長を務め、「ふるさと」「春が来た」「春の小川」などの作詞を手掛けています。
 「紅葉(もみじ)」の詩は、高野辰之の故郷(長野県下水内郡豊田村)と東京を行き来するとき、当時の信越本線碓氷峠の熊ノ平駅から眺めた山々の紅葉の美しさに感動したものがきっかけになっています

 
滋賀の紅葉名所~ 長浜・・鶏足寺 大津・・延暦寺 米原・・清瀧寺 東近江・・百済寺

故郷の空 明治21

https://youtu.be/ep_Ob4t99wg

郷愁漂う名曲『故郷の空』の原曲は、スコットランド民謡『Comin Thro' The Rye(ライ麦畑で出逢ったら)』、作詞は、『蛍の光(Auld Lang Syne)』で知られるスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns/1759-96)。

一般的に「性」に寛容的な国民性を持つといわれるスコットランド、そんな古き良き時代を開放的な若い男女のライ麦畑でのやりとりを通して大らかに描いている。身の丈ほどの高さに成長するライ麦。いったんライ麦畑の茂みに入ったら、中で何をしていても外からは見えない。そんなライ麦畑の中で、男と女が出逢ったら・・・。

明治21年に大和田建樹鉄道唱歌などで有名)が訳詞した。詞の内容はまったく変わっています。 「誰かさんと誰かさんが麦畑・・」の方が原詩に近いですね・・。

旅愁 明治40

『旅愁』は、明治40年(1907)に出版された『中等教育唱歌集』に掲載され、全国に広まりました。                

https://youtu.be/ak7IfDqvaPY

•作曲のJohn P. Ordway(1824~1880)は、フォスターと同時期に活躍していた音楽家。 『旅愁』の元になった “Dreaming of Home and Mother”は、どういうわけか、アメリカではほとんど忘れられているようです。

https://youtu.be/vdm7845EW8M

日本語詞を作った犬童球渓(いんどう・きゅうけい)は熊本県人吉市出身(明治12年~昭和18年)。本名は信蔵で、ペンネームの球渓は、人吉を貫流する球磨川(くまがわ)から採ったそうです(球磨川渓谷の意)。 • 苦学して東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)を卒業したのち、兵庫県の中学に音楽教師として赴任しましたが、現地の西洋音楽排斥運動に出遭い、1年足らずで辞めて、新潟の女学校へ変わりました。 • •この新潟時代に作ったのが『旅愁』と『故郷の廃家』です。『旅愁』の歌詞には、兵庫で味わった挫折感と故郷人吉への郷愁が反映されているといわれています。 • (引用~二木紘三のうた物語)

青い山脈 昭24年

敗戦から4年目、作詞・西條八十、作曲・服部良一、唄・藤山一郎・奈良光枝の「青い山脈」が全国に流れ、新生日本の若い息吹の象徴として「リンゴの歌」とともに「時代の歌」となった。

原作は石坂洋次郎が昭和22年朝日新聞に連載した「青い山脈」。 古く封建的な考えの残る地方の女学校に赴任してきた新任の女教師が、生徒間の争いの仲裁をしたことから、町の封建勢力と対決せざるをえなくなり、彼女の新しい考え方に共鳴した教師や生徒たちの協力を得ながら古い考えに立ち向かっていくという話です。古い価値観を持つ街の実力者を「戦前・戦中の日本」の象徴、それに反発する若い男女、教師たちを「戦後・新生日本」の象徴 女教師を原節子、高校生(旧制)を池部良、女生徒を若山セツコ、杉葉子などが演じました。「民主主義」「自由恋愛」をテーマにした青春小説です。

https://youtu.be/h4cMuqUdwpk

みんなで自転車でハイキングに行くシーンでこの曲が流れます。海のハイキングで、沼田先生が島崎先生に「好きだ」と愛の告白をし、和子とガンちゃんも、お互いの気持ちを確かめ合う。六助と新子が海に向かって走り、六助が新子に「好きだ」と告白の返事をします。新時代を感じさせる映画のクライマックスシーンでした。

引用・参考~佐藤利明の娯楽映画研究所

銀座カンカン娘 昭24 高峰秀子

昭和24年映画『銀座カンカン娘』の主題歌。映画の中の歌唱では、カンカン帽を斜めにかぶりという歌詞があったのですが、レコード化されたときは消えています。

https://youtu.be/lMd0l_mT-GY

カンカン帽とは、日本では明治の末から男性の間で流行りはじめ、大正に入ると洋装・和装問わずカンカン帽をかぶるスタイルが大流行し、昭和初期まで流行は続いた。叩くと「カンカン」と音がするほど固い帽子であることからカンカン帽という俗称が定着した[要出典]。当時は「紳士たるもの外出時には帽子を着用するものだ」というのが常識であったため成人男性の帽子着用率は非常に高く、特にカンカン帽の人気は高かった。職場においても、夏場の正装として受け入れられていたようです。

https://youtu.be/K4cgCFoiz7E

正装の帽子を茶化したような表現は当時の男性社会には受け入れ難かったのも知れないですね。


当時パンパンガールという言葉がありました。星の流れでそれが描かれています。~歌は菊池章子 作詞の清水みのるは東京日日新聞に載った女性の手記を読んだ。もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという利根一郎は上野の地下道や公園を見回りながら作曲し、清水みのるはこみ上げてくる怒りで徹夜で作詞した。完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった[1]
政府から「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった[1]。こんな女にしたのは戦争を起こした日本の政治家ではなかったでしょうか。当初コロンビアレコードは、ブルースの女王淡谷のり子に吹き込みを依頼した。しかし、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。そこで、会社は菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げた。

https://youtu.be/DUcE1kbHC_Y

「カンカン娘」とは山本嘉次郎の造語であり、当時の売春婦の別称「パンパンガール」に対して「カンカンに怒っている」という意味が込められていた。戦後の暗い世相を嘆いた山本の心の叫びであったらしいです(CD集「懐古・昭和歌謡」曲目解説書(解説:森島みちお)より)。高峰秀子が「カンカン娘ってどういう意味なんですか?」と作曲の服部と作詞の佐伯に尋ねたところ、二人とも知らなかったという逸話がある[要出典]

花笠道中 昭23 美空ひばり

 昭和23年発売 ロカビリー剣法のB面 昭和37年映画化された。江戸っ子娘の痛快啖呵と入れ墨若様の豪快編。美空ひばりが十八番の二役で爽やか二枚目里見浩太郎とコンビを組んだ痛快明朗時代劇。歌と恋とチャンバラで魅せる娯楽映画華やかなりし昭和三十年代の傑作です。

https://youtu.be/97RHyMitL0U


江戸は両国の盛り場、矢場の娘・お君と天下の素浪人・緋鯉の寛太は相思相愛の仲。ところがある日突然、寛太が姿を消した。お君は弟の賽の目新太と金次を伴い、寛太を追って浜松へ。ようやく寛太に追いついたものの、道中、怪しい剣客勢が出没。寛太とお君は何度も命を狙われたが、浪人・伊丹隼人の豪剣に助けられた。刺客を放ったのは浜松藩七万石乗っ取りを企む悪家老。藩主の病死を機に、家老はまだ若い竹千代を後継ぎにして権力を一手に握ろうとしていたのだ。急ぐ寛太を連発銃で谷底に撃ち落とし、野望を遂げた悪家老。だが、その祝宴の真っ只中に乗り込んだのは若様姿の寛太、いや実は浜松藩の長男・松千代君という次第。やがて悪一味を一掃。堅っ苦しい武家生活をサラリと捨てて、寛太は愛するお君と共に江戸へ帰っていくのだった。

https://youtu.be/kXFkBBUu6tY?list=TLPQMjAwODIwMjBC0gXWD1pMHQ


歌は日本一、二役演技もお手のもの、さらにその上、立ち回りアクションも見事な美空ひばりの魅力がたっぷり楽しめる好一編。里見浩太郎の爽やかな二枚目振り。そしてもう一枚、豪快剣法で鳴らした近衛十四郎が加わった時代劇道中映画です。

ヘイヘイブギー 1948 笠置シズ子

笠置シズ子は香川県東かがわ市出生。生後間もなく父が死亡、母は乳の出が悪く、偶然近所に出産をしに帰っていた、大阪市福島区の米屋の妻だった女性に貰い乳をしていた。結局、その貰い乳をしていた女性が自分の実子と一緒に静子を大阪に連れて帰り養女となった。

https://youtu.be/LC6HYu27jsE

1927年昭和2年)、小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)を受験、歌・踊りは申し分ない実力をもちながら不合格となる。同年「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団の前身)に合格、娘役・三笠静子の芸名でスターの仲間入りを果たす。1935年(昭和10年)、崇仁親王三笠宮を名乗ったのを機に、三笠を名乗るのは恐れ多い笠置シズ子に改名した。

https://youtu.be/TsYGkS8GgQ8

1938年(昭和13年)帝国劇場で旗揚げした「松竹樂劇団」(SGD)に参加。服部良一と出会う。のちに服部と組んでジャズ歌手として売り出すが、「贅沢は敵だ」をスローガンとしていた時代、3cmもある長い付け睫毛に派手な化粧と身振りが警察から睨まれることとなり、1939年(昭和14年)、丸の内の劇場への出演を禁じられる。1941年(昭和16年)にSGDが解散されられた。その後オーディションに服部良一によってコロムビア専属に迎えられた。

https://youtu.be/lMd0l_mT-GY

服部はシヅ子との出会いについて、自伝でこう書いている。大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと「…全くの別人だった」。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って「オドウレ。踊ウれ」の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。—服部良一『ぼくの音楽人生』 [1]

https://youtu.be/6SfpSymF0MI

•大阪の吉本興業の御曹司・吉本穎右(エイスケ)と恋愛関係になるも吉本の母の反対があった、その後吉本との間に子供を身ごもったことで結婚の許しがでた。しかし出産の数日前に吉本は急死した。出生した女の子には吉本の遺言で とエイ子と名付けた。笠置は生涯独身であった。

テネシーワルツ 昭27

原曲はゴールデン・ウエスト・カウボーイズ版が1948年1月に、カウボーイ・コパズ版が1948年3月に出版され、いずれもヒットチャート上位を獲得した。1950年パティ・ペイジがカバーしたものがマルチミリオンセラーとなった。1952年日本大ヒットした[2]

https://youtu.be/hyW3W-FwF7I

1952年和田壽三の訳詞によって江利チエミが歌唱したものが最も有名である。当時14歳だった江利チエミはデビュー曲として本楽曲を唄って40万枚を売り上げる大ヒットとなり、江利チエミの代表曲になった。

https://youtu.be/TsYGkS8GgQ8

江利チエミさんが、そのデビュー曲「テネシー・ワルツ」に
めぐり合ったのは10歳を越えたばかりの、おさげ髪にリボンを
結んで、米軍キャンプで歌っていたときのことでした。
米軍キャンプでのチエミさんは、そのジャズの歌いっぷりに
米兵を喜ばせ、そのジャズの上手い少女に様々なプレゼントを
渡しました。その中にあった一枚のレコード、それが「テネシー・ワルツ」だったのです。彼女の噂を聞いたキング・レコードのディレクター、和田寿三さんは、その「テネシー・ワルツ」に息を飲み、すぐにレコーディングをすることにしました。録音の当日、14歳の彼女はトレード・マークのピンクのリボンを黒に変えてスタジオに現れました。9日前に亡くなった母親の喪に服していたのです。
そして昭和27年、江利チエミの「テネシー・ワルツ」が世にでたのです。

https://youtu.be/O6HoFaYPYs4

江利チエミの歌唱による「テネシーワルツ」の大ヒットは、チエミが「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(当時の日本では洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。後のペギー葉山、そしてカントリーの小坂一也など、そしてロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけを果たした 。

憧れのハワイ航路 昭和23

昭和23年(1948年)に発表。、底抜けに明るい曲ですがそのころはまだまだ暗い時代で観光目的でも海外旅行など許可されていない時代でした。でも、朝鮮戦争の特需で経済は上向き、商店街が復活し、レコード店が戻って来つるある時代でした。そんな時代のロングヒット曲です。 

https://youtu.be/5LvUniq73RU

『憧れのハワイ航路』は、昭和25年(1950)に新東宝が同名で映画化しました。岡晴夫が岡田秋夫という名前の主役を務めました。そのほか、美空ひばり、花菱アチャコ、古川緑波など、この時代について記憶している人には懐かしい名前が並んでいます。 題名からして、ハワイが出てくるかと思われますが、舞台は東京の下町で、主役がハワイ生まれというだけでした。ハワイロケは無理だったのでしょう。

 

港が見える丘 昭22

東辰三作詞・作曲、平野愛子歌唱による歌謡曲。1947年(昭和22年)、当時新人歌手であった平野が歌った、終戦直後流行歌である。

https://youtu.be/Ve7HnqWGsmo

歌詞には具体的な地名は一切登場せず、この曲の舞台となる「港」がどの港であるかは定かではない。横浜市にこの歌のタイトルを冠した「見える丘公園」があり公園内には歌碑もあることから横浜の歌として親しまれているが[1]、東辰三の出身地である神戸の歌としても親しまれていて[2][3]、東の息子である山上路夫は、「どこが歌の舞台なのか、よくわかりません。(横浜と神戸)二つの港町のイメージをだぶらせて作ったのではないでしょうか」[4]と述べている。

https://youtu.be/mmDByozBpoI

ザ・ピーナッツの「手編みの靴下」(作詞:岩谷時子/作曲:宮川泰)は、この歌がベースとなって誕生した。そして更に岩谷が詞を改作したものが、園まりの「逢いたくて逢いたくて」である

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