◆流行歌1945/S20~S24

ヘイヘイブギー 1948 笠置シズ子

笠置シズ子は香川県東かがわ市出生。生後間もなく父が死亡、母は乳の出が悪く、偶然近所に出産をしに帰っていた、大阪市福島区の米屋の妻だった女性に貰い乳をしていた。結局、その貰い乳をしていた女性が自分の実子と一緒に静子を大阪に連れて帰り養女となった。

1927年昭和2年)、小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)を受験、歌・踊りは申し分ない実力をもちながら不合格となる。同年「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団の前身)に合格、娘役・三笠静子の芸名でスターの仲間入りを果たす。1935年(昭和10年)、崇仁親王三笠宮を名乗ったのを機に、三笠を名乗るのは恐れ多い笠置シズ子に改名した。

1938年(昭和13年)帝国劇場で旗揚げした「松竹樂劇団」(SGD)に参加。服部良一と出会う。のちに服部と組んでジャズ歌手として売り出すが、「贅沢は敵だ」をスローガンとしていた時代、3cmもある長い付け睫毛に派手な化粧と身振りが警察から睨まれることとなり、1939年(昭和14年)、丸の内の劇場への出演を禁じられる。1941年(昭和16年)にSGDが解散されられた。その後オーディションに服部良一によってコロムビア専属に迎えられた。

服部はシヅ子との出会いについて、自伝でこう書いている。大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと「…全くの別人だった」。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って「オドウレ。踊ウれ」の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。—服部良一『ぼくの音楽人生』 [1]

•大阪の吉本興業の御曹司・吉本穎右(エイスケ)と恋愛関係になるも吉本の母の反対があった、その後吉本との間に子供を身ごもったことで結婚の許しがでた。しかし出産の数日前に吉本は急死した。出生した女の子には吉本の遺言で とエイ子と名付けた。笠置は生涯独身であった。

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