8月 2020

かもめの水兵さん 昭12

1937年昭和12年)に発表された日本の童謡。作詞は武内俊子、作曲は河村光陽河村順子の歌唱によって、同年4月にキングレコードから、発売され、戦前および戦中の童謡のレコードとしては大ヒットとなった[5

https://youtu.be/OFjDz9KvlKg

武内俊子が作詞を行ったきっかけは、昭和8年、ハワイに旅行する叔父 )を見送るために横浜港のメリケン波止場に行き、夕日差す桟橋一帯にたくさんの白いカモメをみたことにある[4]。帰り道、かもめの白い姿を水兵に見立てて詞を完成させた。 •俊子は、すぐにコンビを組む河村光陽にどのような詞なのかを電話で連絡した。

https://youtu.be/WDSdfj-VZIs

それを聞いた光陽はその場でピアノを弾き始め、その日のうちに曲を完成させたという[12]。 •詞から浮かんだ海の青とかもめの白の明瞭な組み合わせを曲で表現するために、音楽の基本的な三和音の「ド・ミ・ソ」を歌いだしに用いて、簡潔な旋律を用いた[4]。このように父が弾いていた曲を自宅で聴いていた娘の河村順子は、すでに曲を覚えた状態でレコーディングに臨んだと後に証言している[13]。 •

煌めく星座 昭15

1940年3月に日本ビクターから灰田勝彦の歌唱によって発売された昭和歌謡である。灰田の出世作であり、彼を代表する屈指の曲である。佐伯孝夫作詞・佐々木俊一作曲の「男純情の」で始まる歌である[1]

https://youtu.be/lyVOBB_gw1E

1940年の正月映画・千葉泰樹監督の『秀子の応援団長』の挿入歌。レコードは二ヶ月遅れの3月に発売された。当初は映画主題歌で高峰秀子が謡った『青春グラウンド』がA面であったが、映画のワンシーンでしか使われなかったこのB面の歌のほうが人気に火がつき、40万枚の大ヒットを記録することとなった[2]。このヒットにより都会の若者を中心に人気のあった灰田が一躍全国的な人気を博すようになった。しかし、軍部からこの曲の歌詞が軟弱だとクレームが入り、少し軍事色の強い歌詞に変えたバージョンが発売された。

第二次世界大戦後、再びビクターがレコード事業開始の際、最初に発売されたのは、このレコードのリバイバル盤である。

母さんの歌 昭31

この歌は1956年(昭和31年)2月、窪田20歳の時に『うたごえ新聞』にて発表された。母のからの小包みへの想いや戦時中に疎開していた長野県長野市の旧信州新町地区の情景を歌詞にしたものとされる[2]。 1989年、信州新町に『かあさんの歌』の歌碑が建てられた[

https://youtu.be/YjdXgmsIGFQ

作詞・作曲者の窪田聡は、1954年昭和29年)に進学校だった開成高校を卒業した後、合格していた早稲田大学に合格するも、太宰治に心酔してデカダン(頽廃的)な生き方に憧れ、映画・たばこ・酒に耽溺する日々を送っていました。

彼は文学で生きていく決意を固め、親が準備してくれていた入学金・授業料をもって家出してしまいます。 安下宿に隠れ住んで、就職しましたが、そのかたわら、文学を志して家出[1]埼玉県うたごえ運動の活動をしていました。しかし活動では生活は成り立たずその日暮らしであった。次兄を通じて居所を知った母親から小包が届き始めたのは、そのころのことでした。小包には、彼の好きな食べ物や手編みのセーター、ビタミン剤などとともに、「体をこわさないように」といった母親の手紙がいつも入っていました。彼は歌声運動の中心となりアコーディオン抱えて全国を飛び回り歌声運動を拡げました。

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