8月 2020

星の流れに 昭22

•1947年、歌は菊池章子 作詞は清水みのる作曲利根一郎

https://youtu.be/Xa0Jl71N7ag

東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。利根一郎は上野の地下道や公園を見回りながら作曲し、清水みのるはこみ上げてくる怒りで徹夜で作詞した。完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった[1]。政府から「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった[1]。こんな女にしたのは戦争を起こした日本の政治家ではなかったでしょうか。 •当初コロンビアレコードは、ブルースの女王淡谷のり子に吹き込みを依頼した。しかし、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。そこで、会社は菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げた。

https://youtu.be/Xen6O-lXn1k?list=TLPQMTUwODIwMjC_yyBJ0EV1nQ

東京の花売り娘 昭21

作詞:佐々詩生、作曲:上原げんと

https://youtu.be/qiaJrIFbjBw

昭和21年。戦後の焼け跡に聞こえてきた歌。この時節に花売り娘などはいなかった。日々の食糧にも事欠く時代に、日本人には花を手にするゆとりはない。この年の末に、人気女優原節子とカーネーションを配した色刷りポスターを資生堂が戦後初めて出したが、その花も「夜の銀座で進駐軍に名の売れていた自称ジョージから入手した」と伝えられている」(資生堂ものがたり)というほどの貴重品。

花を手に入れることもできず、売れるはずもない。花売り娘もいなかった。歌のヒットがきっかけになりその後花売り娘が出始め、二十四年ころには八十人ほどになり、大半が小学生だったという。二十七年には児童福祉法の改正施行に伴って警視庁築地署が約五十人を補導したと報じられている。」 (funfanサイトより)。

https://youtu.be/g_AugiS2kTQ

リンゴの歌 昭20

昭和20年並木路子霧島昇戦後のヒット曲第1号となった楽曲。作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』は昭和20年10月11日公開、の主題歌及び挿入歌として発表された[1]。『そよかぜ』は並木が主演を務め、霧島も出演している。

https://youtu.be/VDieNMkohEY

並木路子は、最初からこの歌のイメージどおりに明るくえませんでした。昭和20年3月の深夜の東京大空襲、1783トンの焼夷弾を豪雨のように投下された下町はは猛火に包まれ、路子と母親は炎の海を逃げまどい2人は隅田川のほとりに追いつめられました。熱さに耐えきれず川に飛び込んみ2人はさされ路子は気を失い母ばなくなりました.。

路子は悲しみに浸るいとまもなく、軍の命令で慰問団で満州に行き帰国してすぐのレコーディングでした.。帰国した路子を待っていたのは、父と兄の戦死でした。明るく楽しく歌えといわれても、悲しみはどうしても声に出てしまいます。万城目に何度も歌い直しさせましたが、なかなか声から愁いが消えませ。とうとう彼はリハーサルを中止し、息抜きに上野を一回りしてくるように指示しました。

上野駅の付近には幼い少年靴磨きたちが道具を入れた箱を肩からかけ、客を捜して彷徨てました、年を聞くと「お母さんが空襲で死んじゃっくたので、いくつかわからない」 と答えました。路子はハッとしました、不幸なのは私だけじゃないんだ。孤児になっても懸命に生きている.きようとしている。私も前を向いて生きていこうスタジオに戻ってマイクかった路子の声は一変していました。 その彼女の歌声は戦争で心身に傷を負った多くの人びとを癒しました.生まれました。

里の秋 昭20

作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實童謡歌手川田正子が歌い、1948年(昭和23年)、日本コロムビアよりSPレコードが発売された。

「里の秋」3番の歌詞の誕生秘話~「里の秋」の元歌の愛国曲『星月夜』の一・二番から曲想は大体出来上がっていたが3番が出来ていないと斎藤が海沼に言うと。当時同居していた11歳の川田正子を呼んで、自分はヴァイオリンで伴奏を始めた。
  「♯♭ し~ずか~な~ し~ずかな~~ さ~との~あ~き~」
 透明で澄んだ川田正子の声に乗って流れた。言葉は一言も変わっていないのに、静かな胸を締め付けるような望郷のメロディーにより、全く別のイメージに変貌しているではないか。

この感じなら海沼が望む「復員兵たちに故郷の香りを音楽に乗せて伝え、ああ、日本に、家族の元に辿り着いたのだという実感」を感じさせることができる。 しかし、なかなか歌詞が浮かんでこない。時間はただ無為に過ぎて行き、期限は刻一刻と迫ってくる。

https://youtu.be/e2vkuDPLqYo

放送の前日、斉藤が溜め息をつきながらふとテーブルの上の『星月夜』の元歌を書き取った紙を見ると、丁度三番の歌詞の冒頭に<さよなら>と書きなぐってある。それが<さよなら椰子の島>と読める。あっ!斉藤は思った。<椰子の島>は、自分も南方の戦地を代表するイメージで書いた。また、<さよなら>は戦争に関わる一切の事に訣別する言葉ともいえる。<さよなら椰子の島>は、自分にとっても愛国曲『星月夜』とは180度違う訣別の証しであると同時に、新しい時代への希望ともなり得る。これが決まれば後は一気呵成だった。


(三)さよならさよなら椰子の島、お船に揺られて帰られる、ああ父さんよご無事でと、今夜も母さんと祈ります ♪
 詩の出来上がったのは夜であった。
 私たちがこの詩をよく読み返してみると、確かに元歌『星月夜』の三番と比べスムーズな繋がりがない。唐突にすら感じられる。しかし、全体から見ると、故郷の息吹・家族の思い・歓迎の意、が明確に表れているし、何よりも8月15日を境に時代が180度変わったことを、この歌が表象しているように思われるのである。

https://youtu.be/wXIvqTWmCJY


 昭和20年12月14日午後1時45分、この歌はNHKの<外地引揚同胞激励の午後>という番組で放送された。
 川田正子の澄んだ唄声が皆の心に染みいるように流れた。歌い終わると辺りは時間が止まったように静まり返った。しわぶきひとつしない。やがて感動の呻きが遠雷のように盛り上がってきて、スタジオ内は拍手の嵐に包まれた。番組がまだ終わらないうちにNHKのありとあらゆる電話が鳴り出し、パニック状態となった。<何と言う歌か?><感動した!><もう一遍聞かせて!>。電話などあまり無い時代の話である。NHKでも開局以来の出来事であったという。翌日からは郵便と称賛の嵐。<東京都 NHK様>という手紙も沢山あったに相違ない。川田正子は、同番組で「里の秋」を二回歌った記憶があるそうだ。

みかんの花咲く丘  昭21 

第2次世界大戦の終戦直後に生まれた、日本を代表する童謡の名作の1つとして知られる。1946年8月25日に発表された。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實による。レコードは、川田正子と井口小夜子が吹き込んだ。戦後生まれの童謡の中では最大のヒット曲となった[1]

https://youtu.be/8lTdQzq1UgE

•終戦後の1946年8月に発表された。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實
みかんの「花咲く丘」は、NHKの「空の劇場」という静岡の伊東からの生放送番組で川田正子が歌う曲として使われた。急な依頼で伊東生まれの加藤省吾が作詞し、海沼がその放送現場の伊藤に行く列車の中で窓の景色を見てメロディが浮かび作曲した曲である。 即興で作らられた曲でしたが「みかんの花咲く丘」が流れたら、NHKには電話が鳴り響き、大ヒット曲となりました。

湯島の白梅 昭21

昭和17年(1942)7月、東宝映画『続婦系図』(マキノ正博監督)の公開に合わせて、『婦系図の歌―湯島の白梅―』として作られました。当時の新聞広告では「東宝映画主題歌」となっていますが、映画の中では歌われていません。戦後、『湯島の白梅』と改題されました。

https://youtu.be/PKNekQzg-C4

 『婦系図』で、東京本郷の湯島天神社頭で、早瀬主税がお蔦と交わす次のセリフは 早瀬 月は晴れても心は暗闇だ・・・お蔦 切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に云うものよ・・・私にゃ死ねと云って下さい。
 尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』とともに、明治の三大メロドラマともいうべき作品で、大ベストセラーになりました。3つとも、人口に膾炙(かいしゃ)した名ゼリフが含まれていることで有名です。

引用→「二木紘三のうた物語」http://duarbo.air-nifty.com/songs/2010/02/c-s.html

青い目の人形 大12

大正10年に発表された日本の童謡。野口雨情作詞[1]本居長世作曲[2]で『赤い靴』と同様、異国情緒をかもし出す童謡である。日米の友情を築く意味で作られた楽曲でもある[3]

https://youtu.be/Q0pZS_2RmEs

1923年関東大震災が起こった時は海外からも多くの募金が寄せられたが、アメリカでも義援金を募る際にこの『青い眼の人形』が歌われた [4] “Blue Eyed Doll”と呼ばれ、大盛況だったようです。12000体の人形やアメリカ招待のチケットが送られてきて、日本からアメリカに公演にも行ったらしいです。 でもこの10数年後戦火を交えることになります。どうしてでしょう!この歌も禁止され人形は焼かれてしまったらしいです。

でも終戦後戦火を乗り越えてた人形が発見される度に新聞報道されたらしいです。

こちらに参考になる動画があります→https://www.youtube.com/watch?v=pBI1KmEmdsI

森の小径 昭15

1940年11月にレコード発売、作詞:佐伯孝夫、作曲・灰田晴彦、唄:灰田勝彦

日米戦争へ向けて「ぜいたくは敵だ」というキナ臭い時世のなかで、こんな軟弱な歌詞のレコードがよく発売できました。発売されるとこの叙情的な歌は当時の若者に大いに支持されました。灰田勝彦が慰問に出かけて出撃前夜の特攻隊員と飲み明かした際、この曲を合唱する若者たちに胸を痛めたという逸話が残っている

https://youtu.be/AEw4utUD8dg

好きな人を隣にして、もうすぐ逢えなくなる日が来るので涙する彼女。彼も同じ思いたが、空を見上げて悲しみをのみこんだ。そのとき彼女の肩が触れた・・・」というこの歌。終戦記念日を控えて、特攻隊員たちがふるさとに残した愛しい人への思いをはせた心情をかみしめ、この平和な時代に感謝したいと思います。80年も前の曲ですが今の時代にも斬新で軽快にスイングする美しいメロディーに、白い花が散る緑の森の中を歩く若い二人の姿が浮かび、この歌を唄うといつも遥か遠くになった我が初恋を思い出し胸がキュンとなります。

https://youtu.be/r_gGnXnocgM

灰田勝彦が最も好んでいた曲です。1982年10月26日に肝臓ガンのため71歳で逝去。一週間後の母校に立つ「鈴懸の径」の歌碑の除幕式への出席は出来ず、式には代わりに母校の先輩で兄貴分のディック・ミネが音楽番組の収録を中途で抜けて駆けつけ、号泣しながら歌ったそうです。

参照(ほぼ引用)~BIGLOVEウェヴリブログ 華麗なる夜明けをより

蘇州夜曲 昭15

西條八十作詞、服部良一作曲 李香蘭(山口淑子)の歌唱を前提に作られ、李香蘭主演の映画「支那の夜」(1940年(昭和15年)6月公開)の劇中歌として発表された。同年8月、渡辺はま子霧島昇歌唱でコロムビアからレコードが発売された。1953年(昭和28年)には、山口淑子歌唱のレコードが、自身主演の映画『抱擁』の主題歌として発売された

船員長谷哲夫と山下仙吉は、上海の雑踏で中年日本人男性と口論になっていた桂蘭という中国娘を救う。実は桂蘭は抗日の中国人で、日本人に恩を受けることを非常に嫌っており、助けてもらった借りを働いて返すと言って、長谷と山下の住むハウス(日本人専用のホテル)に付いてくる。住む家もなく上海の街を放浪していた桂蘭がその汚れを風呂で落とすと、その美しさに長谷は驚き、桂蘭の日本人に対する誤解を解くことを決意する。

https://youtu.be/6iYKiOcLYWg

実のところ桂蘭は、上海の資産家の娘で、日本の攻撃によって両親も家も失ったことで、日本人を相当憎んでいたのだった。ある日、高熱を出した桂蘭をホテルに住む日本人や、長谷を慕うとし子らが懸命に看病して治すが、桂蘭はその親切を素直に受けようとしないので、長谷は思わずその頬を打ってしまう。桂蘭は自分のひねくれた心を反省し、また長谷への想いにも気付く。

ある夜、桂蘭が、かつて属していた抗日組織に誘拐される。目的は、長谷から軍需物資の輸送計画を聞き出すことだったが、呼び出された長谷は断固として応じない。長谷が撃たれようとしたその時、桂蘭の機転で事態は一転し、駆けつけた警察によって長谷は救出される。このことで、長谷と桂蘭の仲は一気に深まり、二人は結婚することになり蘇州へ新婚旅行に行くことになります。しかしその日長谷に軍需物資の輸送の指揮を執れという命令が下りました。生きては還られぬ危険な任務で、出発日は新婚旅行の翌日でした。長谷は桂蘭にそのことを告げることができませんでした。それを知らず幸せの絶頂にいた蘇州での桂蘭の表情を見ると胸が熱くなります。そのシーンで「蘇州夜曲」が歌われます。

https://youtu.be/ZIlZGtlTe6I

翌日長谷は新婚の妻を置いて出動する。果たして輸送船は、抗日組織の攻撃を受ける。帰りを待つ桂蘭の元に、長谷が亡くなったという知らせが届く。桂蘭は、かつて二人で楽しい時を過ごした蘇州に馬車を走らせ、虎丘で長谷を偲び泣き崩れ、やがて運河の辺で入水自殺を図る。すると、そこに実は助かっていた長谷が馬車で駆けつけ、長谷に気づいた桂蘭と運河に架かる石橋の上で抱き合うのであった。

https://youtu.be/aStz4abVMUQ

本作は、大日本帝国中国大陸進出を正当化するメロドラマであるとされ[4]、李香蘭という中国名でヒロインを演じた山口淑子も、日本人に殴られた中国人娘が殴った日本人に好意を抱く描写を、中国人側から見ると屈辱的であると解説し、「日本は強い男。中国は従順な女。中国が日本を頼るなら、日本はこのように中国を守ってやろう」というのが本作のメッセージであるとしている[1]。李香蘭を中国人と思っている中国人の友人からも、たびたび『支那の夜』を批判されていたという[5]

このように『支那の夜』は、日中戦争プロパガンダを目的として作られた国策映画との考えが一般的である[6]が、これを否定する議論もある。企画には日本軍や大日本帝国政府関係者が関わっておらず、恋愛が主体のメロドラマであるこの映画は、当時の国策映画像と大きくかけ離れたものだった。そのため、軍人[7]・映画評論家[8]・映画検閲官[9]・新聞の投書[10]等から「国策に逆行する映画」である事を理由に、様々な批判が浴びせられた。

一見プロパガンダに思えるストーリーは、映画検閲を逃れる対策[11]であったが、上海市の戦跡を舞台にしたメロドラマのシーンは検閲官を激怒させ、主演二人が抱き合うシーンは「弱腰すぎる」という理由でカットが行われた[12]

赤鼻のトナカイ 昭38訳詞

1948年、ジョニーマークスによって『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』のストーリーを元に楽曲が制作され、1949年ジーン・オートリー (Gene Autry) の歌でレコードが発売された。オードリーのレコードは当時200万枚を売り上げ[2]ビルボードチャートで1位を記録した。

1938年に実際にあった出来事として、1939年シカゴの通信販売会社モンゴメリー・ウォード (Montgomery Ward) 社に勤めるロバート・L・メイ (Robert L. May)によって同社の宣伝用の児童書が書かれ、250万部のベストセラーとなった[2]。同書は1946年に再発行され、さらに350万部を発行した[2]

https://youtu.be/OYT317Sm4Wc

「真っ赤なお鼻のルドルフ」原作者ロバートは妻と娘のバーバラの3人家族。娘の母は難病で寝たきり療養中でした。泰樹給料で働くロバートの収入は治療費と薬代に消え、貧しい生活でした。娘は友達からいじめられてました。娘は父親に尋ねます。 「どうして私達は、みんなと違うの?」
それは、ロバート本人が身にしみて感じていること。自分自身、小さい頃から体が小さくていじめられ、貧しくて進学することもでず、良い仕事にもつけなかった。おまけに安月給で、治療費のために借金だらけ……そんな父は、娘の質問にどう答えたらいいのかわかりませんでした。

そこで、娘を喜ばせたいという一心で、「真っ赤なお鼻のルドルフ」の話を即興で語り始めたのです。自分自身のコンプレックスを赤鼻のルドルフに託し、神様に創られた生き物はいつかきっと幸せになることを、幼い娘、病と闘う妻、そして自分自身に言い聞かせたかったからだといいます。

https://youtu.be/sPCvyJod0WM

  その後、娘にせがまれて毎晩この話をするようになった父は、クリスマスプレゼントとしてお手製の本にまとめ始め娘や妻への心のこもった贈り物bにしようしました。完成を目前にして妻がこの世を去ってしまいます。打ちのめされたけど、娘のために本を完成させ、愛する娘を喜ばせました。


数日後、会社のパーティーでロバートが「真っ赤なお鼻のルドルフ」を朗読すると、会場から割れんばかりの拍手が起こりました。そうして1939年、彼の会社(大手デパート)から240万冊もの本が(宣伝用として)無料で配られ、この物語が世界中に広がっていったのです。やがて、1949年にロバートの義兄弟によってお馴染みの歌が作られ、クリスマスの定番として愛され続けているのです

https://youtu.be/78c7vDFt6G8

その後も時代を越えたロングセラーとして、「サンタが街にやってくる」、「ジングルベル」と並ぶ三大クリスマスソングとなる。作詞作曲者のジョニーが亡くなった1985年までに「赤鼻のトナカイ」の総売上は1億5000万枚を突破した[3]

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