西條八十作詞、服部良一作曲 李香蘭(山口淑子)の歌唱を前提に作られ、李香蘭主演の映画「支那の夜」(1940年(昭和15年)6月公開)の劇中歌として発表された。同年8月、渡辺はま子・霧島昇歌唱でコロムビアからレコードが発売された。1953年(昭和28年)には、山口淑子歌唱のレコードが、自身主演の映画『抱擁』の主題歌として発売された
船員長谷哲夫と山下仙吉は、上海の雑踏で中年日本人男性と口論になっていた桂蘭という中国娘を救う。実は桂蘭は抗日の中国人で、日本人に恩を受けることを非常に嫌っており、助けてもらった借りを働いて返すと言って、長谷と山下の住むハウス(日本人専用のホテル)に付いてくる。住む家もなく上海の街を放浪していた桂蘭がその汚れを風呂で落とすと、その美しさに長谷は驚き、桂蘭の日本人に対する誤解を解くことを決意する。
実のところ桂蘭は、上海の資産家の娘で、日本の攻撃によって両親も家も失ったことで、日本人を相当憎んでいたのだった。ある日、高熱を出した桂蘭をホテルに住む日本人や、長谷を慕うとし子らが懸命に看病して治すが、桂蘭はその親切を素直に受けようとしないので、長谷は思わずその頬を打ってしまう。桂蘭は自分のひねくれた心を反省し、また長谷への想いにも気付く。
ある夜、桂蘭が、かつて属していた抗日組織に誘拐される。目的は、長谷から軍需物資の輸送計画を聞き出すことだったが、呼び出された長谷は断固として応じない。長谷が撃たれようとしたその時、桂蘭の機転で事態は一転し、駆けつけた警察によって長谷は救出される。このことで、長谷と桂蘭の仲は一気に深まり、二人は結婚することになり蘇州へ新婚旅行に行くことになります。しかしその日長谷に軍需物資の輸送の指揮を執れという命令が下りました。生きては還られぬ危険な任務で、出発日は新婚旅行の翌日でした。長谷は桂蘭にそのことを告げることができませんでした。それを知らず幸せの絶頂にいた蘇州での桂蘭の表情を見ると胸が熱くなります。そのシーンで「蘇州夜曲」が歌われます。
翌日長谷は新婚の妻を置いて出動する。果たして輸送船は、抗日組織の攻撃を受ける。帰りを待つ桂蘭の元に、長谷が亡くなったという知らせが届く。桂蘭は、かつて二人で楽しい時を過ごした蘇州に馬車を走らせ、虎丘で長谷を偲び泣き崩れ、やがて運河の辺で入水自殺を図る。すると、そこに実は助かっていた長谷が馬車で駆けつけ、長谷に気づいた桂蘭と運河に架かる石橋の上で抱き合うのであった。
本作は、大日本帝国の中国大陸進出を正当化するメロドラマであるとされ[4]、李香蘭という中国名でヒロインを演じた山口淑子も、日本人に殴られた中国人娘が殴った日本人に好意を抱く描写を、中国人側から見ると屈辱的であると解説し、「日本は強い男。中国は従順な女。中国が日本を頼るなら、日本はこのように中国を守ってやろう」というのが本作のメッセージであるとしている[1]。李香蘭を中国人と思っている中国人の友人からも、たびたび『支那の夜』を批判されていたという[5]。
このように『支那の夜』は、日中戦争のプロパガンダを目的として作られた国策映画との考えが一般的である[6]が、これを否定する議論もある。企画には日本軍や大日本帝国政府関係者が関わっておらず、恋愛が主体のメロドラマであるこの映画は、当時の国策映画像と大きくかけ離れたものだった。そのため、軍人[7]・映画評論家[8]・映画検閲官[9]・新聞の投書[10]等から「国策に逆行する映画」である事を理由に、様々な批判が浴びせられた。
一見プロパガンダに思えるストーリーは、映画検閲を逃れる対策[11]であったが、上海市の戦跡を舞台にしたメロドラマのシーンは検閲官を激怒させ、主演二人が抱き合うシーンは「弱腰すぎる」という理由でカットが行われた[12]。