◆唱歌・抒情歌1945/S20~S24

里の秋 昭20

作詞は斎藤信夫、作曲は海沼實童謡歌手川田正子が歌い、1948年(昭和23年)、日本コロムビアよりSPレコードが発売された。

「里の秋」3番の歌詞の誕生秘話~「里の秋」の元歌の愛国曲『星月夜』の一・二番から曲想は大体出来上がっていたが3番が出来ていないと斎藤が海沼に言うと。当時同居していた11歳の川田正子を呼んで、自分はヴァイオリンで伴奏を始めた。
  「♯♭ し~ずか~な~ し~ずかな~~ さ~との~あ~き~」
 透明で澄んだ川田正子の声に乗って流れた。言葉は一言も変わっていないのに、静かな胸を締め付けるような望郷のメロディーにより、全く別のイメージに変貌しているではないか。

この感じなら海沼が望む「復員兵たちに故郷の香りを音楽に乗せて伝え、ああ、日本に、家族の元に辿り着いたのだという実感」を感じさせることができる。 しかし、なかなか歌詞が浮かんでこない。時間はただ無為に過ぎて行き、期限は刻一刻と迫ってくる。

放送の前日、斉藤が溜め息をつきながらふとテーブルの上の『星月夜』の元歌を書き取った紙を見ると、丁度三番の歌詞の冒頭に<さよなら>と書きなぐってある。それが<さよなら椰子の島>と読める。あっ!斉藤は思った。<椰子の島>は、自分も南方の戦地を代表するイメージで書いた。また、<さよなら>は戦争に関わる一切の事に訣別する言葉ともいえる。<さよなら椰子の島>は、自分にとっても愛国曲『星月夜』とは180度違う訣別の証しであると同時に、新しい時代への希望ともなり得る。これが決まれば後は一気呵成だった。


(三)さよならさよなら椰子の島、お船に揺られて帰られる、ああ父さんよご無事でと、今夜も母さんと祈ります ♪
 詩の出来上がったのは夜であった。
 私たちがこの詩をよく読み返してみると、確かに元歌『星月夜』の三番と比べスムーズな繋がりがない。唐突にすら感じられる。しかし、全体から見ると、故郷の息吹・家族の思い・歓迎の意、が明確に表れているし、何よりも8月15日を境に時代が180度変わったことを、この歌が表象しているように思われるのである。


 昭和20年12月14日午後1時45分、この歌はNHKの<外地引揚同胞激励の午後>という番組で放送された。
 川田正子の澄んだ唄声が皆の心に染みいるように流れた。歌い終わると辺りは時間が止まったように静まり返った。しわぶきひとつしない。やがて感動の呻きが遠雷のように盛り上がってきて、スタジオ内は拍手の嵐に包まれた。番組がまだ終わらないうちにNHKのありとあらゆる電話が鳴り出し、パニック状態となった。<何と言う歌か?><感動した!><もう一遍聞かせて!>。電話などあまり無い時代の話である。NHKでも開局以来の出来事であったという。翌日からは郵便と称賛の嵐。<東京都 NHK様>という手紙も沢山あったに相違ない。川田正子は、同番組で「里の秋」を二回歌った記憶があるそうだ。

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