原曲はゴールデン・ウエスト・カウボーイズ版が1948年1月に、カウボーイ・コパズ版が1948年3月に出版され、いずれもヒットチャート上位を獲得した。1950年にパティ・ペイジがカバーしたものがマルチミリオンセラーとなった。1952年日本で大ヒットした[2]。
1952年、和田壽三の訳詞によって江利チエミが歌唱したものが最も有名である。当時14歳だった江利チエミはデビュー曲として本楽曲を唄って40万枚を売り上げる大ヒットとなり、江利チエミの代表曲になった。
江利チエミさんが、そのデビュー曲「テネシー・ワルツ」に
めぐり合ったのは10歳を越えたばかりの、おさげ髪にリボンを
結んで、米軍キャンプで歌っていたときのことでした。
米軍キャンプでのチエミさんは、そのジャズの歌いっぷりに
米兵を喜ばせ、そのジャズの上手い少女に様々なプレゼントを
渡しました。その中にあった一枚のレコード、それが「テネシー・ワルツ」だったのです。彼女の噂を聞いたキング・レコードのディレクター、和田寿三さんは、その「テネシー・ワルツ」に息を飲み、すぐにレコーディングをすることにしました。録音の当日、14歳の彼女はトレード・マークのピンクのリボンを黒に変えてスタジオに現れました。9日前に亡くなった母親の喪に服していたのです。
そして昭和27年、江利チエミの「テネシー・ワルツ」が世にでたのです。
江利チエミの歌唱による「テネシーワルツ」の大ヒットは、チエミが「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(当時の日本では洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。後のペギー葉山、そしてカントリーの小坂一也など、そしてロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけを果たした 。