7月 2020

海 昭16

林柳波作詞、井上武士作曲の文部省唱歌 大正2年の「海」と同名異曲です。昭和16年に刊行された初等科1年生向けの国定教科書「ウタノホン上」に採用された曲です。

https://youtu.be/tfXFRQGAI6E


軍国主義の真っただ中の唱歌で、これを作った井上武士は、教科書編集員していて、明治から大正を得て抒情性溢れるそれまでの音楽教科書を「国家への奉仕」を教育する目的で。軍国的主義の強い「儀式唱歌」中心の国定教科書に変えました、 
井上武士さんはよその国へ何をしに行こうと考えながらこの曲を作ったんでしょうか・・



一方作詞者の林柳波は、海のない群馬県沼田市の出身でした。海への憧れや強い思いが歌詞から感じられます。
彼は、昭和の初期の随筆に「歌を教育の手段にするとかいうことで作ってはいけません。ただ、子どもと一緒に遊ぶという、それだけが作者の心です」と述べています。本人はそう思っていても、周りが許さない、当時はそんな時代でした

海 大2

•作詞・作曲者不詳の文部省唱歌。1913年(大正2年)5月刊行の「尋常小学唱歌」第五学年用に掲載された。

https://youtu.be/cycXDPu1H6I


難しい歌詞だったので、昭和の子供はこう歌っていました。

 松原父ちゃん 消ゆる母ちゃん
 父ちゃんと母ちゃんと喧嘩して
 父ちゃんの得意な空手チョップ
 母ちゃんの得意なハンマー投げ
 見よこのけんか 見よこのけんか

我は海の子 大3

1914年(大正3年)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌。

https://youtu.be/hjoj0XfUFZg

•作詞者は不詳とされていたが、平成元年に長女である典子さんが、入選通知と著作権譲渡要請の手紙の保管をしていたことを新聞等で公表して、文部省の懸賞募集に応募した鹿児島市出身の宮原晃一郎(1882-1945)の詩と判明した。 10歳まで住んでいた故郷鹿児島の天保山公園の海岸から見ての桜島を思い浮かべて作詞されたと言われてます。 •鹿児島市の祇園之洲公園には歌碑が建てられている。鹿児島市民の有志が音頭を取り募金(1千万円以上)を集めて、鹿児島の桜島が見える祇園の洲公園に「われは海の子」の歌碑(縦1.7m、横3m)を建てました。福井湾を思い浮かべた作詞したという説もあります、

写真は浜寺公園です。当時は金持ちの別荘がならぶのどかな遠浅の海岸でした。小学校の時遠足で行きました~現在は埋め立てられ工業地帯になっています。

公園周辺の泉北郡浜寺町一帯は大正から昭和初期にかけて別荘地となり、夏期は海水浴場として大変な賑わいを見せた。浜寺海水浴場は大阪毎日新聞社南海鉄道が開設したもので、阪堺線の駅前と言うこともあり、旧堺港南側の大浜公園および大浜海水浴場と並んで一大レジャースポットであった。かつて園内には数件の料亭が営まれており、堺市出身の与謝野晶子与謝野鉄幹と親しくなった歌会も行なわれ、現在は晶子の句碑が存在する。

1945年(昭和20年)から1958年(昭和33年)までアメリカ軍に接収され、解除後わずか3年で泉北臨海工業地帯の埋立造成が始まった。海水浴場は姿を消したが、浜寺公園の松林の保存などを目的に浜寺水路が建設され、辛うじて往時を偲ぶことができる。

旅の夜風 昭13

旅の夜風」(たびのよかぜ)は、松竹映画愛染かつら」の主題歌でもあり、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした歌であった[1]

https://youtu.be/Fb91k68Ch5c

津村病院創立二十五周年祝賀の日、看護婦高石かつ枝は余興に歌を歌った。伴奏は津村病院長の長男津村浩三で、これが縁で浩三とかつ枝はたびたび会うようになった。浩三はかつ技に結婚を申し込んだが、かつ枝には亡夫との間に敏子という子供があるためと身分の相違とを思いあわせてためらっていた。だが、誠実な浩三の熱意にうたれたかつ枝は、愛染堂の桂の木の下で堅い愛の誓を交わした。しかしこのことは、名門・中田病院の令嬢と浩三を結婚させようとしていた家族の大反対にあう。一番強く反対するのは浩三の妹・竹子で、彼女はかつ枝を罵倒した。窮地の二人は、浩三の先輩服部を訪ねて京都に身を隠そうとした。その当日、敏子が急病に倒れたためかつ枝は約束の場所に行けなくなった。

https://youtu.be/BdAaOrEN44k

一人京都へ向った浩三は、服部の世話で大学の研究室で働くようになる。服部の妹美也子は浩三に惹かれるものを感じ、何かと世話を焼く。数日してかつ枝が服部の家を訪れた。応対に出た服部は、かつ枝を誤解しているため浩三の居場所を教えなかった。後日、かつ枝が訪れたことを知らされた浩三は急拠帰京し、かつ枝のアパートを訪ねた浩三は、彼女に敏子という子供があることを知って会わずに帰った。数カ月が経過した。浩三は病院に帰り、竹子の圧力でかつ枝は病院から姿を消していた。

https://youtu.be/TOlgIIhMwYk

そんなある日、新聞に「白衣の天使よりレコード歌手へ」という見出しで、かつ枝が自作の歌の発表会を歌舞伎座で行うということが報じられていた。津村病院の看護婦たちは応援しようとするが、裏切られたと思い込んでいる浩三は、看護婦の外出許可を出さない。だが、かつ枝の同僚・峯沢、若井から彼女の立場と事情を説明されて、すべてを了解した浩三は、看護婦達全員に外出許可を与えた。発表会は盛会だった。楽屋にかけつけた浩三に、かつ枝はだまってうなずくだけであった。--翌日、愛染堂の前にぬかずく浩三、かつ枝、敏子の姿が見られた。

https://youtu.be/x4lqhW1bG6c
https://youtu.be/bFPwqrULgH8

やぎさんゆうびん 昭28

1953年NHKラジオで放送された(作曲:團伊玖磨、作詞 まど・みちお)。白ヤギと黒ヤギの間で終わりなく繰り返される手紙のやりとりがユーモラスな作品である。

https://youtu.be/-gvhuNfNQK4

まど・みちお1909年11月16日 - 2014年2月28日)は、日本詩人。本名は石田 道雄(いしだ みちお)。25歳のときに北原白秋にその才能を認められ、33歳のときには太平洋戦争に召集された。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である[1]。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称された[2]

https://youtu.be/3OO7GRbfya4

りんごの木の下で 昭12訳詞、原曲1905明38

ラグタイムの作曲作詞家ヘンリー・ウィリアムとエグバート・フォン・アリスタインのコンビの作品。1905年のチャートでは1、2位となる大ヒット曲でした。
現在では楽しい曲と知られているこの歌詞を読んでいただくと分かりますが。嘗て愛した亡くなった人への追慕を歌っているのです。つまり林檎の木の下にあるのは愛した人のお墓ということです。しかし他人はどの様に感じるかは人によりますが、自分の愛した人は心の中に生き続けているもの、だからこそ人は墓に詣で花を捧げ亡き人を偲んで語りかけるという唄です。

https://youtu.be/3rUri2TJyiI
若き日のペトラクラークです♪

アメリかでこの曲が作られたのは日本では日露戦争中でした。昭和12年(1937)にディック・ミネが、この曲の明るい部分だけを切り取ってレコードに吹き込みました。このころダンスが盛んになり、ダンスホールではジャズやタンゴ、ブルースなどの洋楽が盛んに演奏されていて、レコードが発売されるとこの曲はダンスホールの人気ナンバーになりました。アメリカでも日本をまねるようになりました。1939年公開の映画『オズの魔法使い』で、ドロシーがリンゴの実を摘もうする場面にこの曲が流れています。

https://youtu.be/I-EVjkm3ytk


 昭和15年(1940)にダンスホールが閉鎖され、ジャズが「敵性音楽」として禁止されると、表立って歌われることはなくなりました。戦後、ディック・ミネ自身や、進駐軍のキャンプ回りをする歌手たちによって、再び歌われるようになりました。

https://youtu.be/m5NzZNWr1-g

引用 二木絃三のうた物語 http://duarbo.air-nifty.com/songs/

青い背広で 昭12

「東京ラプソディー」のコンビ、古賀政男と藤山一郎のヒット曲。暗い時代にも関わらずお洒落して街へ出ようというポップソング。あえて背広を色ものにしたセンスは、戦後日本に訪れるお洒落な消費文化を先取りするものでした。

https://youtu.be/_25-xnwUscw

ただし、あくまでも主役は男性で恋人の女性は「フランス人形」としてしか描かれていません。女性が主役となるような恋の歌は戦後しばらくしてやっと現れることになります。

https://youtu.be/q5Xowyo0WJk

元々この曲のイメージはある時、この曲を歌うことになるお洒落で有名だった藤山一郎がダーク・グリーンの背広を着ているのを見た作詞家の佐藤が色モノの背広に感心して、曲にしてみようと思いついたことで生まれました。

ゴロの問題から青い背広になったものの、当時は色モノの背広は今のラメのスーツ並みに珍しかったはずです。暗い時代ではあっても、「青い背広」に憧れるお洒落に対する欲求は人々の心にあったことの証明なのでしょう。

たなばたさま 昭16

権藤はなよ/林柳波作詞・下総皖一作曲

•昭和十六年三月発行の『うたのほん下』国民学校初等科第二学年用に掲載されました。発表の時のタイトルは「たなばたさま」でした。他の曲同様、作詞・作曲者名は書いてありません。

https://youtu.be/eDyDWaaP0HI

•昭和26年の教科書では、林柳波が作詞、作曲者が不明となっています。自分が作ったものではないのに、「詞 林柳波」としたのです。林柳波は文部省の編集委員でした。。林は「たなばたさま」は権藤花代の作詞と承知していたのですが、初出(『うたのほん 下』)に作詞・作曲者名が書かれていない事をいいことに、自分の作品にしてしまいました。後世に名を残したかったのでしょうか・・か

•二番の歌詞は「五色の短冊」が「きれいな いろがみ、」に変えられていました。林が歌詞を改訂したのです。林は自分が作詞者であることを正当化するためと思いわれています。現在は元に戻されています。

すみれの花咲く頃 昭5訳詞

原曲はドイツの作曲家フランツ・デーレが1928年に発表した“Wenn der weiße Flieder wieder blüht”(白いニワトコがまた花咲くとき)。作詞者は「奥様お手をどうぞ」のフリッツ・ロッター。

https://youtu.be/SmMdTHt4BZQ

 ドイツ語圏での大ヒットを受けて、翌1929年、フランス語の歌詞をつけてパリの劇場で歌われました。これがシャンソンとして知られる“Quand refleuriront les lilas blancs”(白いリラがまた花咲くとき)です。 Fliederにはリラという意味もあるので、ドイツ語のタイトルがそのまま使われたことになります。

https://youtu.be/MpBjySPgYSA

 このころパリに滞在していた宝塚歌劇の演出家・白井鐵造がこの歌を大いに気に入って、日本に持ち帰り、自ら日本語詞をつけて、昭和5年(1930)上演の『パリゼット』の主題歌として使いました。
 『すみれの花咲く頃』としたのは、このころはまだ、リラ(英語ではライラック)が日本人にはあまりなじみがなかったからだといいます。 以後、この歌は宝塚のシンボルソングとして、長く歌われることとなりました。また、シャンソンが日本人に愛好されるようになったのは、この歌がきっかけだといわれています。 引用~引用元~二木絃三のうた物語 http://duarbo.air-nifty.com/songs/ 

鯉のぼり 大2

こいのぼりの雄大さをたたえ、男児がこいのぼりのように雄大に成長するようにという願望を歌っている。甍とはのことであり、「竜になりぬべき」というのはが滝を登って竜門をくぐるとになるという伝説から来ている。 1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出。 

https://youtu.be/LUYEcK9zwcY?t=4

文語調であるため、最近は口語調の「♪屋根より高い…」で始まる『こいのぼり』のほうがよく歌われ、この歌はあまり歌われなくなっている。

「サンライズ音楽広場」は南草津駅から徒歩6分ですお気軽にお問合せください